政治・経済

民主主義の議論はどうすればいいの?多数決と強行採決の違い

Written by すずき大和

2015年夏、日本はおよそ50年ぶりのデモクラシーブームのように見える、

「デモ大国」

になりました。

毎週金曜日の夜には国会前に数万人の人が集まり、政権の進める安保法案に反対を叫んでいました。

9月1日現在まで、政権サイドは繰り返し、

法案に対する

「国民の理解が進んでいないせい」

だといい続け、法律化の正しさは幾ばくも揺らがない、という見解で採決しようとしています。

しかし、与党と政権が説明を重ねていけばいくほど、共感者は減り、反対の声を上げる人が増えている状況です。

8月30日の国会前デモでは、主催者発表12万人、警察と産経新聞の発表3万人強、海外メディアの報道では10万人の人が集まりました。



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日本の民主主義、ここが変?

正しい情報はどこにある?

日本は民主主義の国です。民主主義ならば、多数決によって民意を政治に反映させるしくみになっているはずです。

選挙の結果、国会では与党が大勝し、与党の賛成多数で法案が決まることは、正しい民主主義の手続きです。

がしかし、今回の法案については、国民はこれを

「強行採決」

と呼んでいます。

与党を応援するネット市民の人たちは、

「欧米先進国の人たちは、デモに参加する人の理由が理解できないといっている」

という内容の書き込みをあちこちにしています。

一方、CNNやBBCなどの海外メディアのニュースでは、日本で報道されないことまで大きく取り上げ、掘り下げた報道が繰り返されています。

大手メディアではむしろ、国民の声を聴こうとしない政権の姿勢や、メディアや教育や外交の場での政府の情報規制とも取れるやり方に疑問を呈する論調が多く見られます。

NHKがまったく報道しないことや、伝えている内容とは反対の情報を海外ニュースから得る日々が続いています。

国会議員の多数決で決めることが、なぜ強行採決なのか?

日本では、

「選挙の結果=民意にならない」

という特徴があります。

与党なのに、民意に沿う選択をしない、ということがまかり通ることが、多数決による決定なのに

「強行採決」

といわれてしまう所以です。

これは、独裁政権や全体主義国家ではよく見られますが、立憲民主主義の先進国では珍しい現象です。

世論調査の過半数が反対する政策を政権与党が賛成多数で決めてしまう、ということは、選挙に民意が敏感に反映される国ではあり得ません。

そんなことをしたら、国によっては国会議員が選挙区民からリコールされます。少なくとも、次回の国政選挙で与党が大敗するのは必須です。

しかし、日本では、そもそも、憲法の解釈改憲によって集団的自衛権の行使を行う国にする方針は、2014年の夏に閣議決定されていたのに、その年の12月の国政選挙で与党が大勝しています。

なぜ国会の場に民意が反映されないのか

なぜ日本では選挙の結果が民意とは違うものになるのでしょうか。

その理由はとても簡単です。選挙で必ず投票するのは、主に政権と利害関係が共通している人たちで、政権のやることを支持しているわけではない人の多くが、選挙にいかないからです。

普段から政治に興味は持たず、選挙権を放棄する人の特徴としては、

  • 「誰が政治家になっても同じ」という持論がある
  • 棄権することは、誰も支持していない、という意見表明だと思っている
  • 自分1人が投票してもしなくても結果に何の影響もない、と思っている

という傾向が多く見られます。

選挙や民主主義について、現在進行形の政治を題材に高校生に教えている国などでは、上記のような考え方で棄権する人(特に若者)は日本より少ないです。

上記の考え方が間違っていることを理論的に理解している人が多いためです。

選挙についての認識はどこが間違っているのか

二大政党が拮抗する国では、どちらの党が与党になるかによって、政策が全然違ってくることを何度も体験しています。

「誰がなっても同じ」

ではないと誰もが認識しています。

棄権することは、第一位で当選する人を無条件で支持する、という意味になります。

100人中95人が棄権しても、残り5人のうち4人が選んだ人が当選すれば、それは80%の人に支持されていることになってしまうのが民主主義の選挙のしくみです。

多くの選挙では、当選する人と落選する人の得票差よりも大きな数の棄権者がいます。

棄権した人たちが全員投票すれば、結果が違っていたと思われるケースがほとんどです。

ひとつの党がずっと政権を取りつづけていると、利害関係で繋がる人たちと政権の癒着が固定化しやすくなります。

政治家にコネがない人からもフェアに意見を聞いてほしいと願う人たちが、自ら「ものいわない」選択をしていることが、政権を安定化させ、政権に声が届かない点を助長している、という皮肉が起きています。

反対する人は「理解できないor洗脳されている」という解釈

反対するのは「理解できてない人」なのか

与党を応援するネット市民の見解では、法案に反対する人は「お花畑」なんだそうです。

お花畑とは、状況を公正に捉え、理論的に判断して反対しているのではなく、イメージや思い込みで相手を悪いものと決めつけ、感情論だけで現実味のない理想論を主張している人を揶揄する言葉です。

つまり、彼らは反対する人はそれが理解できない浅はかな思考の人、もしくは悪徳マスコミや日教組によって左翼意識を洗脳されている人、と思っているようです。

「自民党なんか嫌な感じ」も反対の基盤

しかし、実際反対している人の意見を聞くと、イメージ先行で闇雲に誤解して「戦争法案」といっているわけではない、と主張する人もたくさんいます。

  • 政府の見解をよく聞いたうえで、その判断が間違っていると思う人
  • 政府が反対者を「理解できていない」と決めつける言動をする態度に疑問を持っている人
  • 集団的自衛権にも改憲にも賛成しているが、今度の法案は不備が多いと判断している人

など、同じ反対でも立ち位置や主張する点はバラバラな状況です。

が、政権の態度からも、反対者を

「理解できない人」

「洗脳されてる人」

に二分して対処する姿勢がうかがわれます。

特にマスコミや公的機関利用者から反対論が出て来ることに対して、政権は

「偏った意見」

「政治的な意見」

を理由に抑制を促し続けています。

安倍さんは小泉政権の時から、メディアの表現に干渉することが多くありました。

“国民は本質を見ずにメディアによって洗脳されるものだ”

という感覚を強くもっている政治家さんのようです。

反対者の中には、こういう点も含めて「自民党、なんか嫌な感じ」と感じて、

「政権が信用できないので、戦争協力の判断を政権任せにする法案に反対」

という人もいます。

多様な見方、考え方を示す中で議論・判断すること

海外メディアは公正か?

安倍さんがメディアの情報発信の仕方に文句を付ける時の常套句

「隔たった情報」、

自治体やメディアが情報の自主規制をする時の決まり文句

「政治的な主張」、

これらは、他の民主主義先進国ではどう扱われているのでしょうか?

国によって差はありますが、多くの国では、メディアが政治的意見を述べ、リベラルにせよ保守にせよ、その立ち位置を鮮明に表すことは当たり前になっています。

現在の日本のように、放送規制の中に政治的な中立公正を求める文言があって政治的意見をはっきり表せなかった国もかつてはありましたが、現在はむしろ、メディアが各陣の意見を代弁して広く伝える役割を担うことが重視されています。

“複数のメディアが複数の意見を表明し、様々な意見を比べてどれがいいか判断するのは国民一人ひとりである”

という考え方が強く浸透しています。

“いろんな主張を認めることが全体の中立公正を保つ”

というのが民主主義の正しいあり方、としてはポピュラーなようです。

否定的な見方も認め、どちらの「利」を選択するか議論しよう

法案反対派の国民が求めていることの根幹も、このオープンな情報と議論であるような気がします。

  1. 法案のマイナス印象面を「そんなことはありません」とごまかさずに直視した説明と
  2. 反対意見の選択肢を認めた上で、どちらを選択すべきかの議論をすること

この2点が叶わない限り、反対世論の膨らみは抑えられず、多数決が強行採決になってしまうのではないでしょうか。

この文章をあなたが読んでいる時点で、安保状況がどうなっているかはわかりませんが、どういう結果になっていても、有権者である国民が意見表明の責任を果たし、民意の反映された社会が営まれていることを願ってやみません。

まさケロンのひとこと

メディアが情報の自主規制をせずに本質を見せてくれたら色々なことが変わると思うんだけど、まさケロンにはどうなるかわからない!ただ、そのほうがみんな興味をもつだろうし、真剣に考えるようになると思うんだよね~。

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筆者情報

すずき大和

調べもの大好き、文章書くことも人に説明することも好きなので、どんな仕事についても、気付くと情報のコーディネイトをする立場の仕事が回ってきました。好奇心とおせっかい心と、元来の細かい所が気になると追求してしまう性格をフルに発揮して、いろいろなジャンルのコラムを書いています。