正月・年末年始

正月はいつから正月?「一年の始まり」の始まり物語

ふりそで女子
Written by すずき大和

日本では、会社も学校も、ほとんどが4月に始まる年度制度です。外国へ行くと、夏休み明けの9月頃から始まる国もたくさんあります。カレンダーの一年の始まりは、冬の寒さが一番厳しくなる直前の時季が1月1日ですが、暦の年の始まりを社会の年度の始まりにしている文化は多数派ではないようです。

農耕文化が人類社会の根底にありましたから、春や秋のほうが何かと区切りがいいのはわかります。大昔へ行けば行くほど、自然と生活が密着していたと思われますが、なぜ農耕季の節目とはちょっとずれた真冬の半端な時季に年の区切りがきたのでしょうか。



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一年の始まりは「春」となっていた東洋の暦

旧暦は季節の始まりが年の始まりと一致していた

東洋の暦の大もとは、古代中国の暦を輸入したものです。日本も遣隋使の時代以降、近代の明治時代になるまで、ずっと

「太陽太陰暦」

のカレンダーを使っていました。いわゆる「旧暦」というやつです。

旧暦は、日付は月の満ち欠けを基準にしていますが、別に「二十四節気」(冬至や夏至、大寒、啓蟄、処暑など)や「七十二候」など“季節を表わす暦”も併記されていました。季節の暦のほうは、正確に地球と太陽の位置を基準に定められています。

そして、春の始まりを示す季節の暦「立春」の近くに1月1日が来るようにできています。旧暦文化では、農耕作業開始の基準となる「春」が年の始まりでもあったのです。そのため、正月は

「新春」

と呼ばれました。

中国は、今では政治や経済などの社会運営については世界標準の「グレゴリオ暦(太陽暦)」を使っていますが、季節の節目となる年中行事に関しては、今日でも旧暦の日付で行われていることもたくさんあります。お正月のお祝いも、中国文化では旧暦の年明けとなる「春節」に盛大に行われています。

真冬でも日本のお正月は「新春」

日本は明治に入ってグレゴリオ暦に改暦しました。カレンダーには今もなお季節の暦も併記されることが多いです。が、中国のように

“季節感のある年中行事は季節の暦に合わせてある旧暦で続ける”


とはせずに、単純に旧暦の日付で行ってきた習慣をそのまま新暦の日付で行うようになりました。

旧暦と新暦は1ヶ月から1.5ヶ月ずれるため、必然的にお正月は厳寒直前の時季となりました。が、祝賀のやり方は旧来のままなので、

  • 「新春」
  • 「迎春」
  • 「初春」


という表現や、梅の花の意匠などを使う習慣がそのまま残っているのです。

グレゴリオ暦はどうやってできたのか

グレゴリオ暦の始まりは古代ローマの暦から

西洋では、古代、地域によって様々な暦が使われていました。やはり、農耕季を基準に定められることが多かったようです。

イギリス北部の古代ケルト人の文化では、秋の収穫が終わると一年が終わるとされ、新年の始まりは今の11月1日でした。「一日の終わりは日没」とされていたので、前日の10月31日の夜から無事収穫を終えたことを祝う

「収穫祭」「新年のお祭」

を行いました。これがハロウィンの起源といわれています。

古代文明発祥地のエジプトでは、毎年ナイル川氾濫によって肥沃な土が運ばれてきたので、川の氾濫が始まる8月が一年の始まりでした。

世界史の流れでは、地中海文化に端を発するローマが力を持ち、やがてヨーロッパから西アジアの広域を制圧してローマ帝国を築いたことは、皆さんよくご存知のことと思います。

様々な文化がローマ帝国のやり方に影響され、統一されていきました。カレンダーもそのひとつです。今のグレゴリオ暦は、ローマ帝国の中で出来上がっていった暦なのです。

ローマの最初の暦は春から始まっていた

紀元前8世紀頃、古代ギリシャ文明が栄華を誇って、最古のオリンピックが開催されていた頃、王政ローマが建国されます。最初の王ロムルスが作った

「ロムルス暦」

は、春(今の3月)から始まって冬の初め(12月)まで10ヶ月分で終っていました。

最初の暦は、農耕季の春から秋までの段取りの共通認識のために作られました。そのため、農作業がなくなる冬の間2ヶ月は、「死の季節」としてカレンダーを定めていなかったのです。

ロムルスの次の王様ヌマ王は、この死の2ヶ月にも月の名前をつけて、12ヶ月の

「ヌマ暦」

を定めました。

シーザーが一年の始まりを1月に決定

ヌマ暦は一か月の日付の定めは月の満ち欠けを基準とする太陰暦を使い、一年の基準は太陽の角度をもとにしていました。そのため、東洋の太陽太陰暦と同じように、一年が365日とならず、ときどき閏月などを入れてカレンダーの調整をしていました。うまく調整できずに暦がちょっとずれることもありました。

紀元前46年、ローマの執政官についたジュリアス・シーザーは、翌年から暦を完全な太陽暦

「ユリウス暦」

に改め、一年を365日、4年に1度閏年で366日と定めました。この時、一年の始まりを1月にすることも合わせて決定しました。

実は、ローマの政治制度の年度は、紀元前152年から、既に1月から始まるようになっていたのです。共和制になったローマでは、一年の始まりの3月に、執政官の交代が行われていました。

ところが、紀元前153年の冬にヒスパニアで反乱があり、執政官の就任を2ヶ月前倒しにする必要が生じました。以来、政治の年度切り替えは1月1日が一年の始まりとなりました。シーザーは、そんなローマの都合を改めて公式に定め、広いローマ帝国全土で1月始まりの太陽暦でのカレンダー統一を図ろうとしたのです。

グレゴリオ暦の誕生

ユリウス暦は、シーザー死後オクタビアヌスが修正を加え、その形でローマ帝国内に広まり、以後広く長く世界で使われることになりました。

しかし、4年に1度の閏年を入れていくと、100年に約1日多くなってしまいます。1500年もたつ頃には10日以上暦がずれてきていました。

16世紀といえば、既にローマ帝国はなくなっていましたが、ローマ帝国の国教だったキリスト教がヨーロッパ全土に広まり、教会が大きな力をもつ世の中でした。

ローマ教皇グレゴリオ13世は、1582年、暦のずれを修正し、改めて400年に3度閏年にしない4の倍数年を定めた

「グレゴリオ暦」

を定めました。

ユリウス暦の改定版ともいえるこのグレゴリオ暦が、今現在までずっと使われ続けています。

カレンダーは力のシンボル

ということで、結局1月が一年の始まりなのは、ローマ帝国の内部都合で決まったようなものでした。

東洋で中国の暦が広まったのも、先端の文化や技術を教えてあげる立場だった中国が、国交を樹立した国に、交易を許す代わりに中国のやり方に従うことを強制していった結果のことでした。

日本でも、古代の天皇の呼び方「朝廷」とは、“「朝の庭」を制する人”を表わしました。すなわち、朝、日時計で太陽の位置と季節を計り、暦を交付することが権力者の専権事項だったのです。

「時を制するものは、国も社会も制する」


ってことなんですね。

いつか宇宙人とも広く交流するような時代が来たら、どんな「宇宙暦」が共通暦となっているのでしょう・・・。

まさケロンのひとこと

なんでこんなにまだ寒いのに「新春」とか言うのかなーって疑問に思ってたんだけど、旧暦の名残だったんだね。

masakeron-love


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筆者情報

すずき大和

調べもの大好き、文章書くことも人に説明することも好きなので、どんな仕事についても、気付くと情報のコーディネイトをする立場の仕事が回ってきました。好奇心とおせっかい心と、元来の細かい所が気になると追求してしまう性格をフルに発揮して、いろいろなジャンルのコラムを書いています。