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HUNTER×HUNTER蟻編の考察-「絶対悪」と核兵器の正義

玉ボケと綿毛
Written by るーてるぼ

今回はハンターハンターを見て私が考えたことをまとめてみたいと思います。
(※若干のネタバレを含みます。)

といっても、別にハンターハンターの漫画としての素晴らしさやストーリーについて詳しく論ずるつもりはございません。私が気になったのは、というよりここで話題にしたいのは、いわゆる

「蟻編」に漂う雰囲気

についてです。



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ハンターハンター「蟻編」に漂う雰囲気の特異性

蟻編以前のハンターハンター

具体的に言うと、「『蟻編』以前のハンターハンター」では、優れた身体能力や特殊能力を持つ「ハンター」および「ハンターになる為の選抜試験」を受ける志願者達の、つまり善人悪人の違いはあれどともかく

「人間」同士の戦い

がテーマの中心でした。

主人公の目の前に立ちはだかる敵は、敵ながらやはりどこか人間的なところがあり、絶対的な悪として描かれている人物、あるいは物語の中で絶対的悪としてすべての登場人物に敵視されている人物は誰一人として存在しません。

蟻編の特徴

ところが「蟻編」は違います。

「キメラアント」達は、少なくとも通常の人間の目線から見れば、この上ない絶望的なまでの絶対的悪であり、人類の生存を直接脅かす存在であり、ゆえに絶滅すべき対象です。

「蟻の王」にとって人間とは自らの力を増強するために必要な餌に過ぎず、主君のために快楽的に殺人を行う蟻達の前には人間はまさに家畜のような存在にしか見えていません。

人間側も「蟻」との話し合いによる解決など考えられず、これまで善人として描かれてきた人物たちも

「蟻」を殲滅することが「正義」

であることに誰も疑いを持っていないように思います。

このような構成の他の著名なフィクション作品としては、例えば

  • 「ターミネーター」
  • 「バイオハザード」

が挙げられます。

ただ人を殺すためことを目的につくられたロボットである「ターミネーター」

意識を持たぬままただひたすら人を食べ続ける「ゾンビ」

これらはもはや人間と理解し合い、最終的に仲間となる可能性が1%も残されていない純然たる害悪、殲滅の対象でしかありません。

ハンターハンターの「蟻」もまさにそのような絶対的な「邪悪」の権化としてハンター達の目の前に現れます。

例外者としての目の不自由な少女

そんな中でただ一人、眼の見えないグンギの達人である「少女」だけが、

「蟻の王」がどのような姿をしており人間の世界で何をしたのかが全く見えず、

「蟻の王」との会話による情報から判断して彼を立派な敬愛すべき「人間」と認めるのです。

彼女を単に「蟻側に人質にとられた被害者」としてしか捉えていない人間達は、彼女の

「蟻の王」を擁護する言動

に戸惑います。この「戸惑い」をもう少し掘り下げてみたいというのが今回の私の目的です。

カール・シュミットの思想

カール・シュミットって?

ここで、カール・シュミットの思想を少し紹介させていただきたいのですが、まずカール・シュミットって誰なんだというところから始めたいと思います。

カール・シュミットというのは戦時期に活躍したドイツの政治哲学者で、日本では丸山真男氏などの著書でよく言及されます。ナチス政権に法思想的バックボーンを与え、また過去に国家社会主義者を批判したことなどを理由に失脚させられるまでナチス政権に協力していたことなどが仇となり、現代ではそれほど話題に上ることは多くなくなりました。

ですが、日本における「進歩的知識人」のリベラリズムはシュミットの「リベラリズム批判」に応える形で発展してきたとも言えるので、近年では研究価値のある思想家として再び脚光を浴び始めています。

「政治的なるもの」の中心にある「友と敵」

「政治的なるものの概念」において、シュミットは「政治的なるもの」とは何かと問います。

例えば、「倫理的知識」というのは、つまるところ善と悪を区別する能力だということが出来ると仮にしておきましょう。

同様に、「美的知識」というのは、美と醜を区別する能力だということが出来るとします。

倫理的感性に優れた人というのは善悪の区別をはっきりとつけることができ、何が善で何が悪かをわかっている。美的感性に優れた人というのは何が美しく何が醜いのかをはっきりと感じ取り判別することができる。

では、「政治的知識」とは何か。

シュミットによれば、それは

「友と敵」の区別をつける能力

なのです。つまり政治的感性に優れている人は誰が「敵」で誰が「友」なのかをはっきりと判別することができるということです。

このように「政治的なるもの」を定義するところから出発し、シュミットは「友と敵」の区別をなるべくしないようにしようという、リベラリズムによる現代政治の非政治的傾向を正面から批判していきます。

ハンターハンター「蟻編」における「友と敵」

蟻の王は本当に「敵」以外ではありえなかったのか

ここで先ほどのハンターハンターの話題に戻りたいのですが、要するに前述した「蟻編」の構成はまさにシュミット的な「友と敵」の救いようのない敵対関係が最も極端に表面化した悲劇的な場面を書いているように私には思えるのです。

政治化した状況における「正義」とは?

このように情勢が極度に「政治化」した局面においては、もはや「正義」というのはレトリックに過ぎません。

「蟻の王」は確かに残虐であまりに多くの血を流しましたが、彼は明らかに少しずつ「人間化」していました。

つまり人間の「友」となるのに必要な感受性を少しずつ身に着け始めていたのです。ところが人間側は彼を狡猾な罠によって僻地に追い込み「核爆弾」という最も卑劣な武器で絶命させます。その行為にはたしてどれほどの「正義」があったでしょうか。

まとめ

私も一応日本人ですので、簡単に功利主義者の議論をのんで

「核爆弾を使うことが正義にかなうこともある」

などと言うことには感情的に抵抗があります。いくら対象が恐ろしい化け物であっても、そこに穢れなき「正義」があるとはどうしても思えません。

しかしながら、現実の政治の場面では何が起こっているでしょうか。我々はやはりどこまでも「政治的」であり、人間同士の間でさえ「友と敵」を区別しお互いを滅ぼしあっているという側面が今日でもあるのではないでしょうか。

そう考えると、ハンターハンター蟻編は

「我々が生きている世界というのはそれほど厳しいものなのだ」

ということを伝えているように思えてきます。

しかし、です。果たしてそれが最も望ましい世界でしょうか。我々は本当に他の生き方をできないのでしょうか。ハンターハンターの世界で、「蟻」と共存するということは不可能だったのでしょうか。そんなことを考えてみると、漫画・アニメを通して「リベラリズムの功罪」をリアルに実感することができるかもしれません。

まさケロンのひとこと

核爆弾までつかったあたり、「人間の方が蟻よりも絶対に優位でありたい」っていう気持ちがあったんだろうね。共存を考えることもできたんだろうけど、恐怖に負けちゃったんだと思う。

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筆者情報

るーてるぼ

イギリス在住。田舎の風景が好きです。趣味は読書だなんてつまらないことを承知で趣味は読書ですと言ってみます。好きな本は、日本語なら徒然草と方丈記、中国語(漢文)なら荘子と肇論、英語ならMichael OakeshottとRobin Collingwood, フランス語ならAlexis de TocquevilleとMichel de Montaigne, ドイツ語ならCarl SchmittとEduard Moerikeあたりがストライクゾーンだと思っています。