まだまだ寒い日が続いていますが、季節は確実に春に向かって少しずつ動いています。
間もなく節分ですが、その翌日は立春、暦の上では春ですからね。
日本のカレンダーには、所々に“四季を表わす言葉”が書かれた日がたくさんあります。
太陽の位置に合わせて、立春・立夏・立秋・立冬と、各季節の始まりとされる日も決まっています。
それぞれの前日は、季節の変わり目ということで「節分」と呼ばれるわけですが、江戸時代以降は特に“立春の前の節分”を指して使われることが多くなりました。
節分行事は日本独自の習わし
節分の風習はどこからきた?
現在、節分に特別なイベントを行う風習がある国は、世界で日本だけだそうです。
季節の暦はもともと中国から伝わったものです。
立春は中国でも使われる暦「二十四節気」のひとつです。が、「節分」は日本独自の季節の暦「雑節」のひとつです。
豆まきの風習は、室町時代ころ宮中で始まり、江戸時代には一般庶民の間に広がったそうです。
実は、鬼が出て来る魔除け行事は、古代中国の春節(お正月)の習わしの中に、似たようなものがありました。
それが日本に伝わり、日本にあった節分の厄除け行事と合体して、独自の形に発展しながら定着したのが、現在の節分のようです。
中国から伝わり独自に変化していった「鬼」の形
鬼神様が厄を祓ってくれる年越し行事「追儺」
中国の様々な風習と共に暦が伝わったのは飛鳥時代から奈良時代にかけてです。
大晦日に行う「追儺[ついな]」と呼ばれた厄除け行事も、この頃大陸から伝わりました。
金色の四つ目の怖い形相の面を被って刀や矛を持った神様役の人(方相氏)を先頭に、弓矢を持った人などが追従して練り歩きながら、疫病や災いを招く魔もの(鬼)を追い払う、という行事です。
「鬼やらい」
とも呼ばれます。
そのまま年越しの厄除け神事として取り入れられ、平安時代には大晦日の宮中行事として定着しました。
鬼の立場の逆転。祓う者から祓われる者へ
ところが、平安後期の9世紀中ごろに入ると、方相氏が鬼として後続のものたちに追い払われる形に変わっていきました。
これには、いくつかの理由が言われています。
- 面の形相や装束がおどろおどろしいので鬼に見えた
- 方相氏が葬送儀礼時にも出て来る神様であるため、忌避感を持たれて「穢れ」として追われる立場に転じた
- 五行説(中国から伝わる哲学、世の中の事物は全て木・火・金・水・土の五つの気に属するという考え方)では疫病や災害は金気に属するとされたから
など・・・・諸説あります。
日本の節分の風習「土牛童子を立てる」厄除け
疫病退散のおまじない「土牛童子」
一方、追儺の風習が入ってくる以前から、日本では、季節の変わり目には目に見えない災いの元となるパワー「邪気」が生じると考えられていました。
鬼とは、もともとこの邪気を指して呼ぶ言葉です。
昔も季節の変わり目に体調を崩す人が多かったのでしょう。
今より住環境が厳しく、医学も進んでいませんでしたから、疫病などもその頃に流行しやすい傾向がありました。
706年文武天皇の時代に、大勢が死ぬ疫病が流行しました。
この邪気を祓うため、陰陽師たちによって、土で作った童子が牛を引く人形(土牛童子[どぎゅうどうじ])を使った厄除けのまじないが行われました。
これは、寒さの厳しい大寒の期間に宮中の12の門に土牛童子を立て、節分の夜半に取り払って処分することで疫病除けとするものです。
以後、毎年大寒から節分の期間の恒例行事となっていました。
追儺の鬼やらいから節分の豆まきへ
追儺の鬼やらい行事が、鬼神様による厄払いから、鬼役の方相氏を追い払う形に変わっていくにつれ、大晦日ではなく、節分の魔除け行事と一体化していきました。
鬼を祓うのも弓矢ではなく、豆をぶっつける形に変化していきます。
- 「穀物には生命力と魔除けの呪縛が備わっている」という信仰
- 「魔目[まめ]を鬼の目に投げつけて、魔滅[まめつ]する」という語呂合わせから来ている
- 「昔鞍馬山の鬼を退治するのに炒り豆で鬼の目を打ち潰した」という伝説にあやかるため
など、これも由来は諸説あります。
こうして室町時代には今のような豆まきの節分宮中行事が出来上がったのです。
だんだん変わっていく節分の担い手
宮中行事から庶民の風習文化へ
江戸時代になると節分行事は宮中のものではなく、一般庶民の風習になって広まって行きました。
方相氏には角はありませんでしたが、後世、節分の鬼には角が生えていることになり、虎柄の衣をまとう図柄が広まって、だんだん今の鬼のイメージが作り上げられていきました。
新春を迎える前の厄払いということで、いろいろな縁起担ぎの習慣もプラスされていきます。
イワシの匂いは鬼が嫌うと言われ、焼いたイワシの頭をヒイラギや榊の枝に刺した飾りを戸口の外に飾りました。
ヒイラギや榊にも邪気払いの力があると言われています。
これは「節分いわし」と呼ばれ、今も引き継いでいる地域はたくさんあります。
豆まき用の豆を年の数だけ食べると、一年間無病息災でいられると言われるようになったのも江戸時代以降できた風習です。
コンビニ商戦のおかげで、最近は全国区になっている「恵方巻」の風習は、もとは大阪近辺だけに見られたものでした。
寺社が率先して行う節分の豆まき行事
もとを辿ればどう見ても土着の神様信仰由来の行事ですが、その土地の風習とうまく習合させてなんでも取り込んで引き受けてくれるのが、日本の仏教ですから、豆まき行事についても率先して行われ、今では節分は大事な年間行事のひとつとなっているお寺がたくさんあります。
もちろん神社もあり、その年と同じ十二支の生まれの男性(年男)であるスポーツ選手や芸能人、プロレスラーや関取などを呼んで、賑やか盛大に行われる豆まき風景が、毎年ニュースになっています。
ちなみに、日本の寺院で最初に大規模な節分イベントを行ったのは東京の浅草寺だそうで、「江戸名所図会」にもその様子が描かれています。
陰陽師がいなくなった現在、土牛童子像を立てる魔除けはもう行われていませんが、玄衣朱裳の袍(全体が黒、袖だけ赤の服)を着て、手には矛と楯を持ち、金色四つ目の面の方相氏が出て来る追儺の行事は、近年、平安神宮の節分行事の中で再現されました。
元来、日本には鬼が神様になっている地域もたくさんあり、神社仏閣の豆まきでも、入谷の鬼子母神のように神様が鬼神であるところでは、「福は内」は言っても「鬼は外」は言わないそうです。
激しく何かに没頭する様子を「鬼のよう」などという言葉もあり、日本の鬼は、意外と嫌われるばっかりの存在ではないのですね。
節分には、鬼とうまく仲良くしながら福を祈りたいものです。
人を見た目(外見)で判断してはいけません!ってよく言うけど、鬼も見た目がイカツイだけで優しい面もあるんだろうね~。