9月、和の暦では
長月
です。
まだまだ気温の高い日はありますが、夜は随分長く感じられるようになる季節です。
きょうびは一年中毎日、何かしらの記念日があるものですが、9月にも、たくさんの記念日が予定されています。
有名で誰でも知っているものもあれば、古い記念日で毎年イベントがあるのに、案外知られていない日もあります。
9月2日も、そんな意外と知られていない記念日
宝くじの日
です。
宝くじの始まり
日本最初の宝くじの景品は福運のお守り
日本で今の宝くじのような抽選方式の富くじが生れたのは16~17世紀頃と言われています。
摂津箕面(現在の大阪府)にある瀧安寺(りゅうあんじ)というお寺で、元旦から1月7日までに参拝した人たちが自分の名前を書いた木札を唐びつ(木製のフタつき衣類ケース)に入れていきました。
7日に僧侶がキリで箱の中をつつき、3枚の木札を突き刺して選び出しました。
その札に書いてあった名前の人が、福運のお守りを授けてもらえたのです。
このくじは
富会(とみえ)
と呼ばれました。
この抽選プレゼント企画が檀家の人たちに好評だったため、商人なども金銭を商品とした抽選会の抽選券を売るようになりました。
これが
富くじ
の始まりです。
政府によって禁止されたり奨励されたりした富くじ
富くじは大人気となり、参入者も増え、江戸の町にはいろいろな富くじが氾濫しました。
徳川幕府は、人々が一攫千金の夢に憑りつかれて熱をあげることも、商人が濡れ手に粟のように儲けていることも、あまりよろしくないと考え、富くじを禁止します。
それでも、初めは、寺社にだけは建物などの修復費調達目的で富くじを売ることを許しました。
が、それも天保年間になると禁止されます。
以後、100年以上日本から富くじが消えました。
昭和20年の夏、長引く戦争で戦費にとことん困窮した政府は、国民の財産を更に搾り取る手段として、一枚10円の富くじを復活しました。
1等が当たると10万円の賞金が出るというくじは、
勝札
と名付けられました。
しかし、抽選日の前に終戦となり、結局抽選は行われず、くじはただの紙切れになってしまいます。
人々はこれを
負け札
と呼んだそうです。
戦後二か月後、政府は、今度は激しいインフレを防止するために、庶民から金銭をうまく徴収する手段として、再び賞金が当たる抽選券販売を始めることにします。
この時初めて
宝くじ
という名前が付きました。
翌年には国だけでなく、都道府県の自治体にも、復興資金調達のために「地方宝くじ」販売が許可され、全国の自治体に広まりました。
その後政府宝くじは廃止され、自治宝くじの組織化が進み、現在の全国をブロック分けして地方自治体が販売元になっている宝くじのしくみが、だんだんとできあがったのです。
ファンサービスと当選金の時効防止のための宝くじの日
賞金の高額化と宝くじファンの急増
戦後の復興に伴い、万博やオリンピックが次々と開催され、その度に協賛する宝くじが発売されました。
宝くじ人気はどんどん高まり、賞金も徐々に高額化していきます。
くじの発売日には行列ができるようになり、昭和40年代に入って最高賞金が1000万円に達した頃、初めて年間を通じて宝くじの売れ残りがゼロになりました。
この頃から政府もただくじを売って儲けるだけでなく、ファンサービスの向上にも積極的に取り組むようになりました。
はずれくじの敗者復活戦!
そんな中、当選金の引き替え忘れで時効となるのを防ぐため、宝くじを買った人に再度当選番号の確認を呼びかけることを主目的に設けられたのが「宝くじの日」です。
昭和42年にくじ(92)の語呂合わせによって定められ、以来、毎年この日に時効防止を呼び掛けています。
そして、そのために行われている一番のイベントが「はずれくじの敗者復活戦!」です。
前年の9月1日からその年の8月31日までに抽選が行われた宝くじのはずれ券を対象とした
『宝くじの日記念お楽しみ抽選』
が行われます。
すべてのはずれ券の中から、下4ケタの当選番号が1本発表され、当たった人は所定の景品の中からひとつ選んでもらうことができます。
これにより、購入者のお手元のくじの番号を再度確認してもらう機会を作り、当たっているのに気付かずにいた時効券をひとつでもなくすことを目指しています。
宝くじの熱烈なファンには知られているようですが、知らずにはずれ券を捨ててしまっていた人も多いのではないでしょうか。
お楽しみ抽選の景品は毎年変わり、宝くじの公式サイトやポスターなどで発表しています。
この一年一回でも宝くじを買ったことのある人は、ぜひ一度ご覧ください。
すでにはずれ券を捨ててしまった人、来年はぜひ、9月2日までは持っていてくださいね。
宝くじのはずれ券にこんなお楽しみがあったなんて!捨てずにとっておこ~。