2015年の夏休み明け、子どもを持つ多くの親や、学校教育関係者、子育てや学校の問題や障害児教育に関心をもつ様々な世代の人たちの心を震撼させる、とある「授業参観」の話題が、SNSなどのコミュニティで盛り上がる現象がありました。
「ひどい子」と線引きされてしまう子どもたち
問題行動の多い子どもを見世物にしてやり玉にあげる親たち
そうつぶやく一件のツイートが始まりでした。
【拡散希望】
うちの子どもが今日学校からもらってきたプリントに衝撃の事実が書かれてあって愕然としている
こんなやつばっかりだからママ友の輪になんか絶対入りたくない
女同士のグループは本当に怖い、深入りしたくない pic.twitter.com/bCigyvTReL
— さみ@私 イズ バーニング! (@futariboshi) 2015, 9月 3
1学期の終わりに行われた授業参観で、保護者たちが、授業中に自分の子どもの教室を抜け出し、次々と特定の学級を覗きにいく、という事態が起きました。
一部のママ友たちが、いわゆる問題行動の多いある特定の子どものことを
「ちょっと○組に来て」
「あの子ひどいのよ」
「どの子どの子・・・」
と、LINEで連絡し合い、こぞって “見物”に行ったようです。
プリントは、この親たちの行動に気付いた先生たちが、保護者全体に向かって
「子どものいる母親として、さらには人としてどうなのでしょうか」
というメッセージを投げかけたものでした。
何がどう「ひどい子」だったのか
いろいろな問題が内包されたお話ですが、ネットのマナーや「ママ友の闇」といわれる保護者の人間関係についての考察は、とりあえず今回は置いておきます。
ここでは、「ひどい子」といわれた子がどんな子だったのか、についてちょっと考えてみたいと思います。
次々見物者にやってこられた教室の保護者は、何が起きているのかまったく気付かなかったのでしょうか。
気付いても見て見ぬふりをした人がいたとしたら、二学期になるまでの間、誰もそのことを問題視することもせずに、そのまま終わらせてしまう気だったのでしょうか。
ママ友世界では“保身のため仕方がなかった”のかもしれません。
それだけでしょうか?もしかして、心の底に
“「ひどい子」と揶揄されても仕方がない”
という意識はなかったでしょうか。
子どもが見世物にされても、誰も抗議せず、何人もの人が見世物化に躊躇なく加担した・・・それほどの「ひどい子」っていったいどんな子だったのでしょう。
学校が伝えたかったこと
ツイートに添付された画像だけでは、プリントの全部の部分が読めないのですが、わかる範囲では、学校側は、子育てや教育とはどういう姿勢であるべきかについて、真摯に考えることを提唱しているように見えます。
まず、主に当事者だった親の行動の思慮のなさを、具体的行動を箇条書きにしていさめています。
そして、傍目に問題行動をとる子どもについて、周囲が排他的・差別的に捉えることの問題を提起しているようでした。以下、プリントの文より転用します。
“自分のお子さんが、この時の話題の中心だったらどんなお気持ちになりますか。
どんなにやんちゃなお子さんであっても、良いところや素敵なところはたくさんあります。
逆に、どんなに良い子と言われているお子さんであっても失敗したり、困ったりすることはあります。
どのお子さんにも保護者さんがいます。心無いひと言は、大勢の方の心に影を落とします。自信をなくさせます。”
このメッセージからは、学校としては、少なくとも
“やんちゃな子”
“失敗する子”
“困った子”
やその保護者も、自信を持って前向きに生きられるような社会であるべきだ、という立場であることがわかります。
「ひどい子をなんとかしつけ治さないといけない」
「ひどい子のままどうにもできなくて教育者として申し訳ない」
という主旨の言葉はないので、たぶん「ひどい」理由は、本人や周りの力で矯正しきれることではない、そういう子どものことを念頭に置いた話のようにも読めます。
自分の子どもにマイナスに働く・・・親心?偏見?
「ひどい子」と指さされてしまう子の多くは脳の病気
- 先生のいうことがきけない子
- 落ち着きがなくじっとしていられない子
- かんしゃくを起こしやすく、すぐパニックになってしまう子
- 周囲からひんしゅくを買う言動を繰り返してしまう子
こういう子の多くは、育て方やしつけが悪かったわけでも、性格が悪くて他者への思いやりがないわけでもなく、「発達障害」という脳の病気を先天的に持って生まれてきている、ということが、医学が進む中でだんだんとわかってきています。
自閉症児は日常的に社会から「ひどい子」扱いされている
よく聞く「自閉症」というのも、こうした発達障害のひとつです。
“対人関係・社会性の発達の障害”
“コミュニケーション(言葉の発達)の障害”
“パターン化した行動や特定のものごとへの極端なこだわり”
この3つの症状が重なった発達障害のことを自閉症といっています。
ツイートの「ひどい子」と呼ばれた子が発達障害児かどうかはわかりません。
ただ、特別学級などではなく普通学校に通う自閉症児は、同じ学校の児童やその親から、陰で(時には正面から)「ひどい」といういわれ方をされることが、実際とても多いです。
そして、多かれ少なかれ、今回のように周囲から揶揄や差別やいじめを受ける体験をしています。
秩序を乱す子どもは自分の子にとってはマイナス、と考える親
画一化された行動様式に則って秩序的に進めるほうが、ものごとは何かと効率よく運ぶものです。
子どもの学力の向上も、効率よくすいすいと進められる授業の方がより効果的と考える親は大変多く、効率的な波に反抗する「手のかかる子」は、自分の子どもの成長を妨げるのでは、と、思い込んでしまう傾向があります。
そういう、ある意味“親心”が、
「あの子のせいでうちの子が・・・」
「あの子がこのクラスにいなかったら・・・」
「あの子がうちの子をいじめるから・・・」
と、“いい子”とは呼ばれない特定の子どもや親を批判的に、時には侮蔑した見方で評してしまう言動を生んでいます。
それは、相手の病気や悪意のあるなしには関係ありません。
学校の意図がどこまでかはわかりませんが、今回のプリントのメッセージを見ると、そういう
「効率的でない人・ものごと」
を疎外しようとする世の中の価値観に対し、「それでいいのか」と、問われているような気がします。
自閉症の人との共生は、きれいごとか
自閉症の特徴
自閉症は、心の病気と思われたり、育て方や育つ環境に問題があって発症する病気のように誤解されたりすることも多いです。
先天性の病気といわれると、母親が妊娠中に不摂生や不注意で赤ちゃんに悪いことをしたのではないか、と疑う人もいます。
どちらの誤解も、親を大きく苦しめる偏見です。
自閉症の人は、見聞きする情報を脳の中で結び付けてまとめて判断することが苦手です。
また、想像力を働かせる部分に障害があるので、他人の立場にたって考えることが難しいです。
目の前にあることに集中してしまう傾向もあります。
その結果、普通の人から見ると突拍子もないような行動に出てしまうことがたくさんあります。「ひどい子」といわれてしまう所以です。
- 突然叫ぶ
- 突然走りだす
- 身体を大きく揺らし続ける
- 大きな声で独り言をいう
- ウロウロ歩き回り続ける
これらの言動は、周囲には突飛に見えても、本人にはちゃんと理由があることが多いです。
それを頭ごなしに否定したり叱ったりすると、パニックしてしまうので、上手にうまく受け流してあげることが必要です。
言葉を理解することが難しくても、見たものを理解する能力は高いので、言葉ではなく図や絵や単語を書いて見せるとスムーズにわかってくれることが多いです。
他にも、脳の障害の意味を理解すると、自閉症の人とうまく接していくポイントがいくつかわかってきます。
理解が不足しているから差別されるわけではない
社会生活をする上で、通りすがりに出会う人たちとのトラブルや偏見は、多くがこういう障害についての理解が不足しているために起こります。
しかし、自閉症の子どもや大人を受け入れている学校や会社では、往々にして障害についての知識や対処のポイントが、教育・啓発されています。
そこにいる人たちは、自閉症の人が障害者であること、丁寧な対処とサポートがあれば、健常者の社会の中で共生していくことができることを知識としては知っています。
が、理解している上で、差別する人、排他的な振る舞いをする人たちが必ず発生しています。
丁寧な対処やサポートをしないといけないことの煩わしさと不満感から、厳しい目を向けてしまいます。
自分の子どもの学力向上の邪魔になる、と考えることもその一部です。
理想を目指すことは、愚かなことなのか
たとえ障害を持って生まれても、人としての尊厳も権利も自由もあります。それは、誰もがわかっていることです。
変わった人や障害者とも差別なく共生していける社会が理想的だと、多くの人が思うでしょう。
しかし、
「自分の周囲には面倒くさい人は居て欲しくない」
というのが、実は本音なのかもしれません。
「子どもの学力を伸ばし、差別される子を守るためにも、自閉症その他の発達障害児は、健常児と同じ教室に入れないほうが、双方にとっていい」
と考える人もたくさんいます。
最近、もとアスリートの為末大さんが、安保法制案を巡る対立について、
とツイートして、反対運動をしていた学生たちを批判したことが話題になっていました。
いろいろな子どもの良い所を見て共生していくことを説く学校のメッセージは、現実社会では、物凄く理想的なきれいごとです。
LINEで呼び合った親たちは、普通と違う行動をする子がいることを素直に問題視しています。
道徳的にはあまり美しくないやり方だったのは確かですが、現実的な選択を自然に望む人たちだったのかもしれません。
親たちの行為に怒りを感じた人も、果たして自分の子どものクラスに自閉症児がきた場合、その子を手放しで温かく受け入れる気持ちになれるかどうか、ぜひ自問してみてください。
私たちの社会は、本気で障害者と共生する覚悟があるのでしょうか。
簡単なことじゃないとは思うんだけど、みんなが同じ教室に入ることでむしろ成長の可能性を感じるんだよね。学力なんてそもそも健常児で差ありまくりだと思うし、学力向上のためにも、差別される子を守るためにも、分けたいんなら分け方がちょっと違うんじゃないのかな。