新曲が濃い緑になる5月の京都で、とても風流な祭が行われます。
京都3大祭の1つの、
「葵(あおい)祭」
です。
京都のお祭りは、例えば祇園祭や時代祭など、歴史を感じさせるものが多いですよね。ですが、葵祭は平安王朝の風俗が色濃い祭です。
葵祭の名前の由来
葵の葉で飾られた行列
葵祭りの行列は、「葵の葉」で飾られていました。葵の花を頭にさしていた、という説もあります。行列だけではなく、神殿をはじめ、
- 牛車(御所車)
- 祭に参加する人たちの衣装
- 牛や馬
にいたるまで、すべて葵の葉で飾られます。
これは、葵祭が下鴨神社(賀茂御祖神社)と上賀茂神社(賀茂別雷神社)の例祭であるからです。これらの神社の神紋は葵の葉がモチーフになっています。それが葵祭という呼び名の由来です。
葵祭はもともと「賀茂祭」と呼ばれていました。実際に葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の元禄7(1694)年の以降のことです。
葵祭りの歴史
葵祭りは、「下鴨(しもがも)神社」と「上賀茂(かみがも)神社」の2つの神社の祭礼として行われます。祭りの始まりは、567年です。その年は悪天候のため農作物が不作でした。そこで、欽明天皇が原因を占わせてみたところ、賀茂の神様たちのたたりである、ということで、すぐに祭礼を行いました。
当時は葵祭りと言う名前ではなく、日程も5月ではなく4月に行われました。その時の祭りは、「イノシシの頭」をかぶった人たちが誰が一番早いかを走って競いあいました。
変わった行事ですが、これが神様にささげられ、天気が良くなり、農作物が豊かに実りました。
それが、819年には、最も重要な祭として指定され、国家の行事になりました。時代祭りや祇園祭が庶民の祭りであるならば、葵祭りは平安貴族による祭といわれるていたのはこのためです。
当時は一般市民は見学できず、貴族だけが見物や参加を許されたそうです。
葵祭りの祭儀(さいぎ)
祭儀とは神々や祖先をまつることです。葵祭りは、「2つの祭儀」で構成されています。
前儀
これは、5月15日の行列の前に行われるさまざまな「神事」を指します。神事とは神様に関する行事と思ってください。
もっとも有名なのは、「流鏑馬神事(やぶさめしんじ)」です。これは、ニュース番組などでよく放映されているので知っている人が多いかと思います。
全長500メートルも馬場(ばば)コースを、公家の装束や、武家の装束をまとった射手(いて)達が、走る馬の上から3つの的を射抜くものです。他にも下鴨神社と上賀茂神社の両方で、さまざまな神事が行われます。
宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀
この3つが、5月15日に行われます。ですが、「宮中の儀」は現在行われていません。
路頭の儀
観光客にとって、これが「葵祭のメイン」と言えるのではないでしょうか。平安時代の衣装をまとった人たちが、牛車とともに京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社まで、およそ8キロメートルの道のりを行列します。沿道には、たくさんの観光客が詰めかけます。
社頭の儀
こちらは、下鴨神社と上賀茂神社で行われる儀式です。「神事」としてはもっとも重要な儀式です。神馬の引き回し、御祭文の奉上や舞が披露されるなど、こちらもとても歴史と風流を感じさせる儀式です。
葵祭りのウラ話
源氏物語の車争い
世界でもっとも古いの長編小説と言われる源氏物語。いろんな言葉に翻訳され、世界中で読まれている名作ですが、その中で葵祭が舞台の有名なエピソードがあります。
葵祭エピソード
葵祭りを見物しようと、光源氏の正妻である葵の上と、光源氏の恋人の一人である六条御息所がそこで鉢合わせをしてしまいました。当時の貴族の女性は、人前で顔出すことができませんでした。
そこで、車の中から祭りを見学するのですが、その車を停める場所のことで、2人の牛車が争いになりました。
正妻である葵の上の従者たちは、自分たちの方が立場が上だと、六条御息所の車に乱暴な振る舞いをしました。そのため、六条御息所は恥をかかされ、泣く泣くその場を後にしたと言う話があります。
この六条御息所は、後に生霊となって妊娠中の葵の上のもとに現れ、それが原因で葵の上は亡くなってしまいます。
深窓の姫君たちが、わざわざ出かけて見に来たことや、その時に起こった小競り合いなどで当時の人たちの風習や面影を偲ぶことができますね。
流鏑馬(やぶさめ)ってなんであんなにかっこいいんだろうか。