今から30年ほど前、節分に太巻き寿司を食べる習慣は、大阪限定の極々ローカルな風習でした。しかし、当時の大阪人の多くは
「これ、全国区の習慣とちゃうんか!」
と信じて疑っていなかった人がたくさんいました。
同じように、11月に酉の市があるのは関東地方以外では、たった4か所の神社仏閣だけだということを、多くの関東人は今も知りません。
地方から来た人に
「酉の市なんて知らなかった」
といわれて
「ええっ!全国区のお祭じゃなかったんだ!?」
と驚く関東人が大半です。
酉の市って何?
鷲神社の年末の祭
「酉の市」で検索すると、
“関東地方各地の鷲(おおとり)神社で行われている祭”
と出てくることが多いです。
が、実際には、大鳥神社など鳥にちなむ名前のつく神社、更に全然鳥と関係ない名前の多くの神社やお寺でも行われています。関東地方だけでだいたい30か所くらいでしょうか。
名前に大鳥や鷲がつく神社の関東の本社は、埼玉県久喜市にある
鷲神社系列の神社では、「日本武尊(ヤマトタケルのみこと)」が祀られています。神話では東征に行く前にこの鷲宮神社で戦勝祈願をしたとされています。
日本武尊の亡くなった日とも、戦勝祈願した日ともいわれているのが11月の酉の日だったので、鷲宮神社には古くから年末(12月の最初の酉の日)に「大酉祭」を行って、翌年の招福を願う信仰がありました。近隣の鷲神社にも、この「酉の日精進信仰」は受け継がれていきました。
収穫祭と合体し、市がたつように
花又村(今の足立区花畑)の「大鷲神社」近郊の農民たちが、いつの頃からか、大酉祭に重ねて、その年の実りを氏神様に感謝し、翌年の招福祈願もする「収穫祭」を行うようになりました。境内には市が立ち、これが現在の酉の市の発祥起源だといわれています。
市の中では、農耕具の熊手を売る店も出ていました。熊手の形が
“福やお金をかき集めるもの”
と、見立てられ、そのうち様々な縁起物の飾りをつけた「縁起熊手」が
- 「商売繁盛」
- 「招福」(福を招くこと)
のおまじないとして売られるようになっていきました。
後発だけど「起源発祥」と謡われる浅草鷲神社
大鷲神社の前では、賭博にふける農民も多く、江戸時代半ばにもなると、遠くからも人が訪れるようになり、市はとても賑わっていました。
しかし、1773年、幕府が賭博禁止の命令を出すと、人の賑わいは減っていきました。
一方、ちょうどその頃、千住の勝専寺(しょうせんじ)や、浅草の鷲神社及び併設されていた長國寺(ちょうこくじ) でも、11月の酉の日に酉の市を立てるようになります。
こちらは江戸の町エリア内でしたから、もちろん賭博は行われず、縁起熊手の店が中心となり、翌年の福を願う多くの江戸町民で賑わうようになっていきます。特に、吉原の遊郭と隣り合う浅草の酉の市は、どんどん盛大になりました。影響され、近郊の神社仏閣で酉の市をたてるところも急激に増えていきました。
千住の酉の市は、今はもうありませんが、浅草の酉の市は現在では日本一の規模の盛り上がりとなっています。
花畑の大鷲神社の祭は当初「酉の祭(とりのまち)」と呼ばれており、「酉の市」という名称が付いたのは浅草の市が初めてでした。以後、酉の市で普及していったので、浅草鷲神社の酉の市の際は、
“酉の市起源発祥の神社”
という横断幕が張られ、「発祥地」がアピールされています。
(でも、実際の祭や市の発祥は前述の通り別の神社です)
商売繁盛のニュアンスが強くなったことが不人気の原因?
「酉の市なんて知らない」という若者の声
南関東の11月の風物詩としてすっかり根付いている酉の市ですが、実は近年、若い層の間で知名度が落ちている、という実態があります。きょうび
「トリノイチ?知らない」
と反応する若者は少なくないそうです。
当の若者世代の声を聴くと、
「近くに酉の市をやっている神社があるか、家業が商売の人じゃなきゃ知らない」
という意見が結構あります。
「山車や神輿が出るわけでもなく、縁起熊手の店がメインの縁日だけでは見るものがない」
というのも多いです。
外国人観光客には、熊手の芸術性に対して十分見る価値を評価されることが多いのですが、日本の若者の目には、クールなものとして認識されにくいようです。
商売繁盛だけじゃない
もともと招福を願う熊手が、いつの間にか「商売繁盛」のおまじないに特化されてイメージが広まってしまっていることが、
「商売してない人には関係ない」
という空気感を作っているようです。
関西の商売繁盛の神様「えべっさん」の祭(えびす講)と対比されることが多いせいかも?
本来は熊手に込める思いは、商売繁盛に特化せず、何でもいいのですが・・・。
家内安全でも必勝祈願でも、みんな応援してくれる縁起物なんですけどね。
「商売繁盛」だけじゃ人の心をつかむことは難しいんだな~現代人って難しい!