京都の八坂神社では、現在
祇園祭
が毎日執り行われています。
八坂神社は中世までは
- 祗園社
- 祗園神社
もしくは祗園感神院と呼ばれていました。
八坂神社に名前が変わっても、地名の祗園と祗園祭の名称が今も残っています。
祗園の言葉が意味するもの
八坂神社と祗園信仰
○○祗園祭と呼ばれる祭は日本全国いたる所にあります。
全国の八坂神社の祭、というわけでもなく、神様も内容もいろいろなものがあります。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
は、ご存知
平家物語
の冒頭文ですね。
あの祇園精舎とは、京都の祗園神社のことではありません。
インドにある、お釈迦様が説法をしたお寺です。
いわば、仏教の聖地のひとつです。
祇園精舎の守護神は牛頭天皇という神様で、別名祇園天神と呼ばれ、これを拝する信仰を「祇園信仰」と言います。
八坂神社は最初に祗園天神を祀ったので「祇園神社」と呼ばれました。
神仏混在の神様
なぜ仏教の神様を祀っているのに神社なのでしょうか?
実は、牛頭天皇はその出自にいろいろな説がある習合神なのです。
習合とは、いろいろな宗教のいろいろな神様が混ざり合って同じ神様とみなされる現象のことです。
古代の日本では、八百万(やおよろず)の神を信じる自然信仰があり、そこへ中国から仏教が入ってきたので、神仏混在の宗教環境が生れていました。
牛頭天皇は、日本では
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
と同一の神様だとされています。
日本の創世記の神話
スサノオは、日本創設神話のアダムとイヴと言っていい、イザナギ・イザナミが最初に産んだ神様三人の一人です。
今の天皇家の直結の先祖とされる天照大神(アマテラス)の弟で、暴れん坊のため天界を追放され、出雲の国へ降りたってヤマタノオロチを退治した話は有名です。
古事記では、そのまま出雲の地に留まったことになっていますが、一説ではインドに行ってお釈迦様の寺の守護神になっていたわけです。
平安時代、疫病が流行り、原因は亡くなった天皇の祟りと言われました。
のが、八坂神社と祗園祭の始まりです。
祗園信仰の普及と祗園祭の広がり
江戸時代まで続く祗園信仰
神仏混在の牛頭天皇を進行する祗園信仰は、江戸時代まで続きます。
八坂神社が一番有名ですが、他にも牛頭天皇を祀る神社がたくさんでき、全国に祗園を名乗る神社が広がりました。
一方、京都の祗園神社が最初に行った災い除けは、国と同じ数の矛(槍のような武器)を立て、それぞれに悪霊を封じ込める儀式を行うものでした。
牛頭天皇を祀る神輿渡御と共に、京の地で根付き、やがて町衆も参加する祭のように発展します。
矛は真木(しんぎ)というご神木の柱になり、その柱を立てて曳くための山車が、今の山鉾に進化していったのです。
依り代を乗せた山車を曳き回す祭の広まり
室町時代には、京の祇園祭の山鉾巡行は今の祭の形がほぼ出来上がっていました。
国が豊かになって、どんどん絢爛豪華になっていった山鉾の祭は、地方から都を訪れた人を感嘆させました。
その華やかな活気にあやかり、郷土の里の祭を景気づけようと、稚児(6歳以下の子ども)やご神体などの依り代(神を宿すもの)を乗せた山車を曳き回す形の祭が各地で起こりました。
いくつかのものは、その地名をつけて○○祗園祭と呼ばれました。
今に伝わる祗園
こうして、祗園神社や祗園祭はそれぞれに全国各地に広まりました。
その結果、いろいろなタイプの祗園祭が現在に残っているのです。
帝(みかど)のいる京の文化は、地方の人の憧れの心を呼び覚ますものがあったのでしょう。
東京が首都になって以降、全国各地の目抜き通りの商店街が、みな○○銀座という名前になっていったのと同じですね。
明治になって、神仏分離令が発せられ、祗園神社も牛頭天皇を祀るわけにいかなくなり、主祭神が改めて素戔嗚尊とその妻子たちになりました。
名称からも祗園の字をなくして八坂神社とし、仏教色を廃しました。
しかし、長年親しみ、全国の民の憧れであった「祇園」の名称は消えることはなく、今も町名と祭の名、そして八坂神社の相性として、ずっと愛され続けているのです。
確かに京都以外にも、「会津島祇園祭」って聞いたことあるなぁ~
このお祭りも、福島で7月22日~24日まで行われるおまつりやで!