私事ですが、最近、老齢の父が亡くなり葬儀を出しました。13年前の母の葬儀の時と同じお寺さんにお願いしました。
久々の喪主サイドでの葬儀でしたが、葬儀屋さんやお寺さんの対応も、告別式の形態も、母の時とだいぶ変わっていました。
時代の変化に伴って大きく変化してきた結婚式に比べ、葬儀については、保守的に元来のやり方が踏襲されてきている分野かと思っていました。
が、いやいやいや、昨今の葬儀は、一昔前の常識や形式にとらわれない“時代に合った”形に変わりつつあるようです。
葬儀屋さんやお寺さんはぼったくり!がみんなの本音?
葬式は仏教形式に則って!は暗黙の習慣
日本では、中世の時代は、全ての人が家単位で地域の仏教徒のコミュニティに属していました。
お寺の「檀家制度」というやつです。葬儀や法要に関しては、当たり前のように仏教式で行われてきました。
近代、檀家制度は廃れ、戦後は普段から特定の宗教への信心がない人が大多数になりました。
けれど、そんな人たちも、死んだら一様に仏教式、という慣習はずっと残りました。
「しきたり」「常識」と言われると逆らえなかった日本人
昔の日本では、地方でも都市でも、火事と葬儀については、庶民は同じコミュニティ内で皆が手伝うのが慣わしでした。
「村八分」という言葉がありますが、例え八割方は仲間外れにされている家でも、『残りの二分=火事と葬儀はちゃんと協力するのが暗黙の了解』、という意味なんだそうです。
村単位(都市なら長屋単位?)でやるものだから、皆が同じ価値観と基準で進めないと、不満が出てしまいます。
「しきたりだから」と言われれば、一人だけそれに逆らうのは共同体で生きる上では難しかったでしょう。
戦後復興が進んだ1960年代以降、都市では自宅で葬儀する人の割合は激減し、近所の人が手伝う習慣も無くなってきました。
しかし、身に付いた価値観はなかなか消えません。
- しきたりとか
- 常識とか
- 相場とか
- 皆がやっているので・・・とか
- そういうものですから・・・とか
言われると、疑問を感じるようなことでも、「やりたくない」と言ってはいけないような雰囲気はずっと残りました。
葬儀屋さんやお坊さんに言われるまま、「なんでこんなに高いのかなぁ」と思いながらも葬儀費用を払っていた人は、実はたくさんいました。
葬儀の意味が伝承されなくなると、本音が言えた
消費者が葬儀の素人ばかりになっている現代
すでに40年くらい前から、首都圏だけでなく、地方へ行っても、近所で葬式のお手伝いをし合わなくなり、親戚づきあいも減っています。
そうなると、葬儀に携わる経験も激減しました。自分の近しい身内の時だけだと、せいぜい10年に1回くらいの頻度でしょう。
親が葬儀の手伝いをする姿を見ずに大人になってしまう子どももたくさんいます。
常識とされていた“しきたりの伝授”も自然に立ち消えていきました。
「葬儀に関する知識は全くのド素人」のまま、いきなり喪主になる人も珍しくなくなりました。
葬儀業者や宗教者たちも、伝統を伝えてこなかった
しきたりが伝えられていかなくなったにも関わらず、お寺さんは、戒名やお経の意味や必要性について説明することは滅多にありませんでした。
読経の長さや回数も、お坊さんの言うままにお願いし、読経一回につきん万円という請求に従ってお金を払っていました。
葬式業者も、どんなものが必要なのかの説明を十分にせず、まとめてセット料金での受注を促すような商売が横行していました。
価格表の提示もなく棺や祭壇の受注契約をするとか、現場でオプションサービスが追加されていった結果、見積もりより高い費用を請求されるケースも続発していました。
知らないことで、気兼ねなく問題点を指摘できた
相場も含めて「葬儀ではこういうものが必要」という吹き込みをする人がいなくなったことは、逆にしきたり順守のプレッシャーも減少させました。
業者やお寺さんの説明の無い料金設定に不透明さを感じ、不満や不信感を抱いた人たちは、自然と従来のやり方を頑なに守ろうとはしなくなっていきました。
病院指定の葬儀屋さんにそのまま依頼しない人が増えていきました。
戒名も位牌も読経もいらない脱仏教式葬儀をする人も出てきました。
最近の都市部では、葬儀の50%近くは、「家族葬」「密葬」という形を選ぶそうです。(東京では、知人の葬儀に呼んでもらえないことがよくあります)
遺族の職場関係の人まで香典を持っていくような「一般葬」のほうが、今では珍しくなりつつあるのです。
中には「直送」と言って、火葬と埋葬以外に特別な葬儀は何もしない人も、全体の10~20%いる、という数字が出ています。
葬儀も宗教もサービス業精神が大事な時代
結婚式みたいにサービスのいい葬儀屋さん
父の葬儀で頼んだ葬儀屋さんは、母の時とは比べ物にならないほど親切でサービス過剰でした。
こちらが椅子に座って話す時などは、相手は必ず片膝をつくようにしゃがみ、こちらより低い視線で話をしていました。
腰低く、親身になって寄り添う感を伝えるマニュアルなのだと思います。
参列者へのお返し品や、精進落としのメニュー、香典返しの品はもちろん、自宅で遺骨を供える祭壇のパーツのことまでも、ひとつひとつ丁寧に意味と値段を説明して、必要性の確認をしてくれました。
有無を言わさず訳の分からないものを用意され、請求された母の時とは大違いです。
一番びっくりしたのは、棺の蓋をする前に、まるで結婚式の新郎・新婦の紹介のようなセレモニーをやってくれたことでした。
BGMを流して、プロの司会者が、父の生前の略歴や晩年の生き方などを紹介して追悼する言葉を詩のように述べてくれました。
「最後にお父様のことを簡単にご紹介します」とは言われていましたが、ここまでドラマチックに演出してくれるとは思っていませんでした。
いや、びっくり!
結婚式の「ご優秀な成績で・・・」みたいに、評価を盛って話してくれていました。
う~ん、あそこまでは要らなかったかも・・・。
戒名も位牌も本当は要らないよ、と教えてくれたお坊さん
通夜と葬儀の時に来てくれたお寺さんも、実に多弁でした。
上から目線を感じさせず、丁寧にお経の意味や、死後の世界観を説明してくれました。
読経の回数と値段もちゃんと了承の確認をとってくれました。
「長いようなら〇〇分くらいに縮めることもできますが」なんて相談までありました。
過去帳のようなものはあっても位牌の必要性は決まっていないとか、戒名もそもそもは富裕層だけの習慣だったことまで教えてくれました。
(つまり、無理に高いお金出して買わないといけないものではないってことです)
自分にあった葬儀をよく吟味して選択するために
私の場合は、一例ですから、業者やお寺によって、サービスのいい悪いはもちろんあるでしょう。
しかし、全体的に、今の時代、偉そうに構えていては、営業的にまずいことになる、と気付いてきたのだと感じました。
「いやあ、なんて良心的な葬儀屋さん、お寺さんなんでしょう!」
と思いましたよ。
でも、考えてみたら、サービス業としては当たり前のことなんですね。
いかにこの業界が今まで殿様商売だったのか、ということでしょうか。
これからは、透明性と顧客に合わせた細かなサービスが求められる仕事になっていくことは必須と思われます。
お仕着せに決められたことをする縛りがなくなることは、故人や遺族にとって一番いい葬儀の形を選択する幅が広がります。
が、それは、結婚式と同じく、喪主さんのクオリティセンスが問われるイベント、ってことにもなります。
遺族が心置きなく見送れるよう、これからの時代は生前に自分の葬儀のこともちょっと考えて書き残しておいてあげたほうがいいかもしれません。
ただ悲しいだけじゃない、みんなの記憶に残るお葬式にしたいね。