韓国に旅行に行ってきた友人から、お土産に豚の貯金箱を貰いました。
朝鮮半島では
「豚は金運をあげる」
と言われています。
人類史上最も古い家畜とされる豚は、洋の東西でそれぞれ紀元前1000年以上前から飼育され、食用とされてきました。
子沢山なこともめでたいとされ、ヨーロッパでもドイツやオーストリアなどではラッキーアイテムとして豚モチーフの小物などを送る習慣があります。
沖縄では元旦に豚を食べるとその一年は幸せになると言い伝えられています。
漢字文化圏で使われる紀年法(年を数えたり記録したりする方法)の代表に、60年で一周する循環式システム
「干支」
があります。
十干十二支のうちの十二支の最後は、日本以外の国では「豚年」です。
“中国から干支が伝わった当時は、日本では豚は馴染みがなかったため”猪に変えたと言われています。
が、弥生時代の遺跡から既に家畜としての豚の骨がたくさん出ており、遣隋使が中国の暦を正式に伝える前から十二支は日本に伝わっていた、と思われる記録もあります。
なぜ日本に豚年は伝わらなかったのでしょうか。
そもそも干支って何?
漢字文化圏独特の順番と方位の表現
現在、世界共通で使われる紀年法は主に
「西暦」
です。
歴史上のある年を始点にして、そこから何年目かを数える方法のことを「紀元」と言います。
世界には西暦以外に独自の紀元法を用いている文化も複数見られます。
紀元はどんどん数字が足されていく無限に続くシステムです。
これに対し、君主の即位などでリセットされる
「元号」
と言われる有限の紀年システムを用いている国や地域もあります。
一方で、循環式の方法は、漢字文化圏以外では、古代ローマなどで使われていた15年周期法くらいしか見当たりません。
中国を起源とするこの循環式の紀年法は、年だけに留まらず、月日や時間など、時を数える場合にはほぼ何にでもこの干支が用いられており、更に方位を表わすためにも使われました。
もはや順番や角度を表わすのに“数字”を用いる、という発想はないのか?と思うくらい、漢字文化圏ではこの干支が時と方角を表現する基本となっていました。
始まりは殷の時代?
中国大陸の歴史は先史時代に始まり、古代文明の時代を経て、紀元前21世紀頃、最初の王朝“夏”が起きたとされています。
しかし、考古学的に実在が確認されている最古の王朝は、紀元前17世紀頃に夏を滅ぼして起きたとされる殷(商)です。
その殷代の遺跡から出土した亀甲獣骨に、すでに日付を表わすための干支が記されていました。
年を表わすのに干支が使われるようになるのは、もう少し後の戦国時代頃(紀元前403~221年)です。
この頃、中国の天文学では天の赤道帯を12等分して十二支を割り当てた「十二辰[じゅうにしん]」が、太陽などの位置を表わす座標系に使われるようになります。
丁度12年で天球上を一周する木星は、一年に一辰ずつ位置が移動していきました。
この木星の動きに準じて計算される十二辰によってその年を表わす紀年法が生れたのです。
干支はいつどうやって決まったのか、誰にもわからない
- 十干は「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」
- 十二支は「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」
と表わされます。
この字が何を意味するのかは諸説ありますが、いずれも後の時代の解釈であり、いつ、誰が、どんな意味を持って定めたのか、本当のところが伝わる記録は未だに見つかっていません。
日本では「ね・うし・とら・う・・・」と動物名で訓読みしますが、十二支に動物が割り当てられたのは、漢字の順番ができた後のことです。
どうやって割り当てられたのかの真相も、定かではありません。
十二支の動物の割り当てに見るお国の事情
十二支に十二獣が割り当てられ、やがてイコールに
十二支の動物がいつ決められたのかはっきりしていませんが、秦(紀元前221~207年)の遺跡からは十二獣が十二支の順に並んだ意匠のものが見つかっています。
秦の時代の紀年法は、木星の位置を計測して決めるものでした。
木星の公転周期は、実は正確には11.862年なので、約86年たつと、一辰分ズレてしまいます。
そのため、「超辰」と呼ぶ定期的な調整が行われていました。
が、後漢時代(西暦25~220年)になると、その調整を行わず、木星を観測して記録することも止めて、天体の動きに関係なく、60年周期の干支を延々と繰り返していく紀年法になりました。
同じ頃、十二支の解説も、元来の漢字の意味することではなく、割り当てられた動物名で説明されるようになりました。
このことによって、干支の本来の意味が正しく伝えられず、後の世に生まれた様々な解釈が俗信として広まっているものの、今となっては、本当の由来が全くわからないのです。
十二獣として広まっていった十二支
後に、漢字文化が広まっていった中国の周辺国にも、干支紀年法は伝わっていきました。
既に越辰はなく、十二支のそれぞれの文字は動物名として伝わりました。
韓国、チベット、タイには、中国と同じ十二獣が伝わりましたが、その他の国では、それぞれの土地の事情に合わせて、より馴染み深かった動物に差し替えられる部分もありました。例えばべトナムでは、牛と羊よりも身近な家畜だった水牛と山羊に変わっています。
また、“卯”の発音がベトナム語の猫に似ていたので、卯も猫に変わりました。
モンゴルでは、“寅”は豹になっています。また、台湾やモンゴルでは“亥”は猪となっていますが、これは字が猪ですが、意味は中国と同じ「豚」のことです。
日本の“亥”が豚にならなかった理由
日本では猪のほうが身近な動物、だった訳でもなさそう
冒頭で述べた通り、中国の文化が本格的に伝来したのは、古代遣隋使が中国から戻って来てからですが、それ以前にも、大陸から人や物が少しずつ渡って来ていました。
豚もまだ狩猟生活が主だった時代に、既に日本に持ち込まれていたようで、弥生時代に入ると、狩猟される鹿や猪だけでなく、家畜の豚が食べられるようになっていました。
万葉集や古事記にも「猪」について書かれた文言が出てきますが、
これはイノシシではなく「豚」のことです。
この時代既に、狩猟により捕獲される猪より豚のほうが身近な存在でした。
肉食が“穢れ”となっていった日本
稲作が普及し、米による納税が行われるようになると、稲作に役立つ動物を保護する目的で、天皇は「牛・馬・犬・猿・鶏」の肉食を禁止するおふれを出しました。
狩猟される鹿・猪や家畜の豚に関しては禁止されませんでした。
やがて稲作が盛んになると、米を神聖視する文化が発生します。
牛や馬だけでなく、全ての肉食が稲作の妨げになる“穢れ”と捉える価値観が人々の間に生まれます。
山間部などでは、わずかに猪猟の習慣が残り、食文化も継続されましたが、肉食のための豚の飼育は途絶えてしまいます。
十二支の伝来と普及は、丁度この時季に訪れたのではないかと思われます。
十二支の俗信として知られる
という民話も合わせて伝わったとも考えられます。
もしかしたら、食材としてのお付き合いの歴史しかなかった豚が、禁忌されてしまったため、
十二支のひとつとして豚が一年間大将の動物になることに抵抗があったのかもしれません。
あくまでも推測のひとつにすぎませんが・・・。
中国での発祥の詳細だけでなく、日本での十二支の由来の俗信もいろいろ生まれており、本当の所はやはりよくわかっていないのです。
最近では干支で月日や方角を表わすことは、実生活ではまず必要なくなっており、干支が十干十二支のセットになっていて60年で一周することすら知らない人も増えています。
年賀状の絵柄になるだけの十二支ですから、豚でも猪でも、大差ないと言えばない話かもしれません。
神奈川県厚木市から豚のゆるキャラ「あゆコロちゃん」の登場もあったし、豚もみんなから愛される存在になってきてるね!