少数派が感じている苦しみ
渋谷区が条例案を発表
2月に渋谷区が発表した条例案が論議を呼んでいます。
これは同性カップルを
「結婚に相当する関係」
と認め、証明書を発行するというものです。
渋谷区によれば、自治体が同性同士をパートナーとして証明する制度は全国初だそうです。
この条例案は3月に開会予定の区議会にて審議され、可決・成立すれば4月1日から施行されます。
証明書の発行は15年度内の開始を目指す方向で考えているとのことです。
「結婚に相当する関係」とはどういう意味なのでしょうか?
これまでアパートやマンションなどに入居しようとしたり、病院での面会などは、同性カップルの場合、「家族ではない」という理由から断られるケースが非常に多かったそうです。
もしこの条例案が可決された場合、区は証明書をもつカップルを夫婦と同等に扱うよう求めることになります。
解釈の幅を広げると、同性同士が共に生活することを認める、ということになるのではないでしょうか。
このことから証明書は「同性婚」証明書と同等の効力があるといえます。
「ストレート」の立場から考えてみる
同性愛者に対して異性愛者を「ストレート」と呼ぶのだそうです。
ストレートとはまっすぐという意味です。
男性が女性を、女性が男性を好きになるのはふつうのことだから
まっすぐ=ストレート
という意味合いなのでしょうか。
この「ストレート」という言葉はマイノリティの抱える問題を象徴しているように思われます。
マイノリティとはいうまでもなく「少数派」のことです。
マイノリティはメインではありません。発言力も強くありません。
まして同性愛者ということになれば、まず間違いなく差別を受けるでしょう。
そんなマイノリティの視線が「ストレート」という言葉に象徴されているような気がしてなりません。
さて、筆者は「ストレート」です。人を愛するという行為に関しては多数派に属しているということになります。
今回、この話題を多数派の視点から考えてみたいと思います。
同性愛者の人びとから見れば渋谷区の条例案は歓迎すべきものだと思います。
しかし異性愛者である筆者には表面的なものしか見えません。
いままで差別を受けて心を痛めてきたのだろうから、条例案が可決されれば多少なりとも同性愛者にとって良い方向に前進するだろう、程度の感想しか出てこないのです。
筆者の周囲には同性愛者はいません。だから、彼ら、彼女ら生の声を聞くこともできません。
では逆の立場で考えてみましょう。
もし、同性愛が多数派で異性愛が少数派だったとしたら。
筆者はそれでも女性を愛することでしょう。
その結果どんな障害が立ちはだかるでしょうか。無理やり同性を愛することを強制されるかもしれません。
「あいつ、女が好きなんだって」などと職場で噂されるかもしれません。
気持ち悪いと白い目で見られることでしょう。
親からは「お前の性癖のおかげでこっちまで迷惑している」などと非難されるかもしれません。
異性愛者というだけで職に就けないかもしれません。
そんな状況のなかで自分はどのような行動をとるでしょうか。
はっきりと断言できます。それでも筆者は女性を愛することでしょう。
ここまで考えて、分かったことがあります。異性愛も同性愛も人を愛するということに変わりはないのですね。
自分とは違う、という考え
必要なのは相手を尊重するという姿勢
今度は同性愛ということを離れて、問題を少し俯瞰で考えてみましょう。
世の中が多数派と少数派に分かれてしまうのは、つきつめたところ「自分とは違う」という考えが根本にあるからではないでしょうか?
たとえば「オタク」という言葉があります。
「アニメオタク」といった使われ方をして、おうおうにして差別的な意味合いを強く含んでいます。
「オタク」という定義が「自分の興味のあることに関しては徹底的に追及する」ということであるのならそもそもすべての人間は「オタク」です。
それがアニメやゲームなどを対象とすると「オタク」となり、スポーツや仕事を対象とした場合は「オタク」とは呼ばれない。
このような物事のとらえかたはすこし考え方を変えるだけで大きな変化を伴うのではないでしょうか?
それは相手を尊重するということです。
けっして難しいことではないと筆者は思います。
こいつはオレとは違う、という考え方で線引きをしなければいいのです。
それでは同性愛についてこの考え方を当てはめてみましょう。
異性を愛する人が数のうえで圧倒的に多いことでしょう。
多数決を取ったら、同性愛者に勝ち目はありません。そして線引きをされてしまうのです。
数が多い方がメイン、標準、普通である、と。異性であろうと同性であろうと「人を愛する気持ち」にはなんら違いはないのです。
救済ではなくチャンスを
今回の渋谷区の条例案、現時点ではあくまでも案であり、可決されるかどうかは誰にもわかりません。
可決されれば渋谷区以外の自治体でも同様の条例が施行される可能性があります。
この条例案が同性愛者の人々にとってどのようなものになるのかは、筆者にはわかりません。
ただひとつだけはっきりと感じるのは、これが救済ではなくチャンスでなければならないということです。
「あなたたちは差別を受けてきたんだね。かわいそうだね。これからはすこしでも楽に生きていけるようにしてあげるからね」
ではなく、
「これをきっかけにして、もっと前に進んでください。堂々と人を愛しつづけてください」
でなければいけないと思うのです。
筆者の私見ですが「かわいそう」という考え方は一種の差別です。
何と比較してかわいそうなのか?
自分と比較して相手が恵まれていない、という考え方に基づいているからです。
極端な意見かもしれませんが、自分は幸せ、この人は不幸、という見方も先に書いた「線引き」と同じことなのです。
かわいそうと思うのではなく同性愛者を尊重することが大切なのではないでしょうか。
自分とは違う、だけれども認める。言い換えればこれも人を愛することと根本は同じことではないでしょうか。
デリケートな話題だと思って距離を置いているのがいけない気もするんだよね。
子どもの頃から、
「ねぇねぇ、◯◯くんってストレート?」
「いや~ストレートじゃないんだよね僕は」
みたいな会話が当たり前になればいいと思うんだ。