政治・経済

差別と人権の話~どうして差別してはいけないのか?

Written by すずき大和

目指す社会の形が変化してきている最近の日本

差別や人権侵害の認識がちょっと違う

最近、作家の曽野綾子さんが新聞に書いたコラムの内容が、人種差別的と受け取られ、国内外から抗議が寄せられる騒動がありました。

南アフリカからも公式に「人種隔離政策を容認、美化するもの」と抗議文がくる内容でしたが、曽野さんは「これは区別であり差別との指摘には当たらない」との主張を繰り返し出し続けています。

曽野さんのコラムは、国内でも非難の声が優勢です。が、「区別と差別は違う」というフレーズは、日本では女性差別や在日外国人差別の際にもよく使われ、多くの人から支持される考え方になっています。但し、国際的には通用しないのが一般的です。

また、国連からも法規制を勧告されているヘイトスピーチに対して、「表現の自由」と突っぱねる向きがあります。在日韓国・朝鮮人の犯罪率や生活保護受給率が日本人よりも高いことなどを引き合いに出して、「ヘイトスピーチは仕方ない」と黙認・奨励する雰囲気が、政治家にすら感じられます。

自己責任論と共に、格差を肯定する社会観が広まる

弱者が国から救済を受けることは、「国に迷惑をかける」ことだという考え方が、バブル崩壊後に、急速に広まりました。不景気な世の中になり、ますます人々の間にその感覚が高まっているようです。

いわゆる勝ち組と負け組の格差は、生まれ持った優位性の影響ではなく、個々の頑張りの違い、つまり

自業自得の結果=自己責任

という考え方への賛同者が増えています。

そのため、職の無い人が生活保護をもらうことは、バッシングの対象になる傾向も見られます。

子育てや介護で仕事に制限がある人の分、他の同僚の労働状況が過酷になると、欧米などでは、フォロー体制をちゃんとしない企業の体制が非難されますが、日本では仕事を優先しない労働者が「職場に迷惑をかけている」と言われます。

ここでも、迷惑をかける人が非正規雇用として低く扱われるのは差別ではなく、自己責任という理論が働きます。

21世紀初頭の日本は、「差別」「人権」という概念が、国際的なスタンダードとはちょっと違ってきているようです。

すべて人間は生まれながらにして自由かつ平等

世界人権宣言が、差別を否定する理念の根幹

人類は、長い歴史の中で、戦争のない平和な社会で、誰もが飢えたり傷つけられたりすることなく、心豊かに暮らせる世界を作ることを目指して、様々に努力してきました。

その過程で「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等である(世界人権宣言第1条)」という「人権」という考え方にたどり着きました。

20世紀は、この平等・人権の考え方に基づいて、差別は否定され、差別に繋がるシステムの見直しが行われました。国際人権規約や各種人権条約はみな、この概念が基盤になっています。

人権啓発の理念が伝わらなかった日本

日本でも国際人権規約や女性差別撤廃条約などが批准されています。

しかし、法の文言だけが強調され、「どうしてそうなのか」という理念についての教育や啓発があまり行われませんでした。その結果、

「差別はどうしていけないのか?」

という問いに明快に答えられない大人が大勢います。

差別を是正するために取られる措置は、逆に不公平だと反応する人も、とても多いです。

差別の認識が緩いのは

  • 「差別はどうしていけないのか」
  • 「差別を是正するために被差別者に特別な処遇をするのはなぜなのか?」

の共通認識が曖昧なために出て来る事象、とあながち言えなくもないでしょう。

差別がいけない本当の理由

では、改めて、差別がなぜしてはいけないことなのか考えてみましょう。

人間は褒められると伸びるタイプなんです

人間は、元来「誰かに認められたい」という欲求を生まれながらに持っています。

自分自身について評価されることに喜びと生きがいを感じるように出来ています。

多分褒められると脳内の喜び物質が分泌されるようになっているのだと思います(その辺は専門外なので、科学的な解説は省きます)。

逆に、頑張っても評価されない、または不当に低い評価を受けると、大きなストレスを感じます。

それが恒常化してしまうと、生きる気力や向上心が失われていきます。生産性も当然下がるでしょう。

また、頑張っても報われない絶望感は、怒りや憎しみへと変化しやすく、格差の不満が蜂起や戦争に繋がっていった歴史は、枚挙にいとまがありません。

人類が生き残るには、あらゆるタイプが元気に生き延びること

地球上の生き物は、環境に適応することで生き残っています。生存競争とは弱肉強食ではなく、適応力の有無で決まります。

人間が太古の昔、人として進化し始めた際、適応のための武器は多様性とそれを守る社会機能でした。

強い牙も爪もなく、火を通さないと食べ物が食べられなくなっていった人間は、厳しい自然環境の中、他の種と競争して生き残るために、弱い者もタイプの違うものも全て取り込んで社会を作り、弱者を守りながら集団で生きることで、生存競争に勝ち残りました。

より強い遺伝子が残るように弱い者を淘汰したところで、人間の一番強い者など、ちょっと強い獣や悪性のウイルスでも来たらイチコロかもしれません。

集団で守り合いながら、遺伝子のタイプをたくさん保持することで、いざという時に生き残る可能性のある個体数を増やそうとしてきたのが、人間の生き残り術でした。

より生存競争に強くなるためには、様々な種類の人類がみんな元気に生き延びていくことが大事、ということです。

科学技術が発達して、今では生き残る武器は格段に増えましたが、この習性は人間社会の本質となりました。

戦争で人間が大量に殺し合うことはもちろん、一部分の遺伝子集団のモチベーションが下がり、生産性が落ちて生存が危ぶまれることは、人類の存続にとってマイナスです。

フェアに評価されることが活力の元

正しく評価されないということは、人間のモチベーションを著しく下げます。

それは、実力以上に持ち上げられないとダメということではありません。

きちんと正当に評価された上で、実力に応じたポジションに配属されることはやる気をそぐとは限りません。

正しい評価がされると信じられれば、低い位地をくやしいと思って奮起して、いい意味の競争が全体のレベルを上げるかもしれません。

しかし、不当な評価によって低い位地に貶められると、「どうせ頑張ったところで認められないし・・・」と頑張ることをやめてしまうのが人の心です。フェアに評価される世の中であって初めて人は力を発揮できるのです。

統計学的な傾向で、その真価を決めるのは不当な評価です

差別とは、その人自身のパーソナリティを正当に評価せず、出自や性別や人種など、外側の情報だけで判断して評価を定めてしまうことです。

例え、統計学的にその人が属する出自や性別や人種に特徴的な傾向が見られても、その人がその特色と合致しているとは限りません。

もしその人が全く異なる特徴の人ならば、統計的な傾向で判断されるのは不当な評価になってしまいます。

だから差別をしてはいけないのです。

100%の人にその特性が認められることが実証されることでない限り、外側の情報で振り分ける区別は差別です。

曽野さんのコラムやヘイトスピーチが差別である理由は、特定の人種について、十羽一絡げに特徴を決めつけて語っているからです。

そんなことを言うと、ヘイトスピーチ肯定派の人たちは、こぞって在日の人たちの不快な部分について力説し始めるかもしれません。

しかし、例え99人の気に入らない在日韓国・朝鮮人がいたとしても、一人だけでも良識があって尊敬できる在日の人を知っているのならば、在日だというだけで全てを決めつけるのは差別であり偏見です。

どうしても肯定するならば、彼らは100%の在日が彼らの非難する行為を行うということを証明しなくてはなりません。

それができないのならば、彼らがどんなに非難をしたところで、それは差別の正当化にはならず、彼らの常識の無さを世界に向かって叫んでいるだけのことになってしまいます。

(証明できたとしても、それを誹謗中傷という形で攻撃すれば、やはり差別ですが)

どうして負け組を税金で支援してあげないといけないのか

現実は、人間は生まれながらにして平等ではない

世界人権宣言は、人間の平等を謳っていますが、世の中、残念ながら完全に平等にはできていません。

全ての人が、何かについて優位性を持っていたりいなかったりします。

  • 戦争している場所に生まれた人より、してない場所で生まれた人のほうが、優位です。
  • 多くの場合、仕事をする上で、男性のほうが女性より優位です。
  • 障害を持っている人より持っていない人の方が圧倒的に優位です。
  • マイノリティよりマジョリティのほうが優位です。

勝ち組にいるのは、優位性があったおかげでもある

大学を出て、就活に成功して、いい会社に入って、安定した生活をしている人は、自分自身が頑張って能力を発揮した部分ももちろんあったと思います。

が、大学に行ける環境や、就活に割ける時間の余裕や、フルタイムで会社勤めすることが可能な家族構成など、条件に恵まれたおかげで、今の生活を手に出来た、とも言えます。

多くの優位性を利用した結果の選択だったわけです。

負け組が成功できなかったのは、実力や努力不足のせいだけではない、それ以外の不利な条件が重なった結果でもあります。

負け組になった人は、決して全部が自業自得であるとは限らないのです。

もしかしたら、勝ち組の人だって、どれかの優位性が無かったら、負け組になったかもしれません。

フェアな立場で評価されるためのしくみが人権庇護

優位性の違いで高い評価を得る所にいけない人がいたら、それはフェアではありません。

世界人権宣言の第1条には続きがあります。

「人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」

これは、優位にある人は、そうじゃない「たくさんの負け組の人たちの上に自分の勝ちがあるのだ」ということを忘れちゃいけない、ということです。

社会は優位性の足りなかった人たちがフェアな評価を得られるように、不利な部分をかさ上げする支援をする義務があります。

なぜなら、差別がいけない理由と同じ、皆が元気に生き延びることが、人類の存続に欠かせないことだからです。

生活保護や失業保険による給付を受けることは、「社会に迷惑をかける」ことではありません。同胞がフェアに評価されるよう助け合うことは、社会のサバイバル術です。

優位にある皆さんは、勝ち組の税金が負け組救済に回されることを不公平だと思う前に、自分の優位性について、ぜひ想像してみてください。

まとめ

人間はフェアに評価されることで、夢や希望をもって生きることができます。

皆が夢と希望をもって元気に生き延びることで、人類は繁栄していけます。

生まれながらにしてフェアじゃない部分を助けてもらう権利が人権です。

助けてもらうことは、社会に迷惑をかけることではありません。

差別は人をフェアに評価しない行為です。

差別され続けると夢や希望を失い、やがて怒りや憎しみが生み出されます。

それは、優位な人とそうじゃない人の間に対立と争いを招くことになります。

だから、差別はしてはいけないんです。

しかし、現実の世の中は、まだまだ差別とアンフェアに満ちて、戦争がなくならない社会です。

優位じゃない立場でフェアな競争に参加できない人たちも、差別を感じてじっと耐えている人たちも、それでもどこかに希望を見出して日々を生きています。

勝ち組の人たちが、自分の優位性に対してもう少し謙虚になって、「同胞の精神」「差別がいけない理由」について、もう少しだけ考えるようになったら、もしかしたら、日本はもうちょっと違う社会になるかもしれません。

例えば、助けが必要な子どもや老人を支援しながら働く人が職場にいたら、彼らの仕事の支援をすることを「迷惑をかけられている」と思わないようにしませんか。それだけで、あなたの社会の見え方は、とっても違ってくるかもしれない、と、私は思います。

まさケロンのひとこと

たしかに、生まれによって勝ち組になるための「難度」は違ってくるよね。それでも周りからしたら結果がすべてになる。
フェアじゃない部分は助けあって、差別なんかやめよう!人が輝くためには夢や希望が必要だと思うんだ。

masakeron-love


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筆者情報

すずき大和

調べもの大好き、文章書くことも人に説明することも好きなので、どんな仕事についても、気付くと情報のコーディネイトをする立場の仕事が回ってきました。好奇心とおせっかい心と、元来の細かい所が気になると追求してしまう性格をフルに発揮して、いろいろなジャンルのコラムを書いています。