もうすぐ「母の日」です。
世界中いろいろな国に「母の日」があります。
という習慣は、「アメリカ」が起源で、そこから日本も含めたアジア・ヨーロッパ・南アメリカの一部に広まったのです。
母の日の起源は、実はもっと長い話
母を想う娘の提唱によって作られた記念の祝日
この習慣の発端は、1907年5月12日アメリカのフィラデルフィアに住むアンナ・ジャービスが、2年前に亡くなった母親アン・ジャービスを偲び、教会に白いカーネーションをたくさん贈って、『母の人生を記念したこと』だと伝えられています。
母を想う行動に感銘を受けた人々が、翌年から「母の日」を祝うようになります。
アンナはその後も「母の日」の祝日化を社会に働きかけ、それがだんだん広まって、1914年には大統領が5月の第二日曜を「母の日」と制定し、合衆国の祝日となりました。
アンナの気持ちと裏腹に発展する母の日
母の日の起源として伝わるこの話には、実は前段と続きがあります。
アンナの母アン・ジャービスは、素晴らしい社会活動家でした。
アンが記念したかったのは、そんな世の母親たちの平和や正義への貢献の歴史でした。
しかし、「母の日」が世に広まると、商業主義の力がその目的を
にすり替えていきます。
当時の花屋業界の雑誌には
「これは利用できる祝日だ」
と書かれ、
という広告が街に溢れていきました。
1923年、母の日にカーネーションが高騰するのを見たアンナは、ついに祝日行事の差し止め裁判を起こします。
結果は敗訴し、雑誌には
と書かれました。
そして、その後、更に急速に商戦化は進んで行きます。
娘が母の人生で讃えたかったこと
人々の命と平和を守る活動に人生を捧げたアン・ジャービス
アン・ジャービスは南北戦争を経る中で8人も子どもを亡くしました。
残る娘2人を苦労して育てながらも、社会貢献活動を続けました。
結婚6年目の1858年、彼女はまず病気の人を助ける募金や公衆衛生を向上させる活動を行う会を立てます。
南北戦争が始まると会は中立を宣言し、南北の区別なく戦争で傷ついた人々の心を癒し、双方が敵意を超えて尊重し合う平和な社会を目指す活動を起こします。
南北戦争の戦記を記録したジュリア・ワード・ハウ氏は、アンの活動に影響を受け、1872年に
「平和のための母の日」
を開くことを提唱します。
以後約30年、毎年6月2日に、母親たちが率先して各地で平和を祈願する社会運動のイベントが開かれました。
実はこれが「母の日」の原型であったとも言えます。
社会活動に勤しんだ母親たちの平和への願い
当時、女性の参政権はありませんでしたが、多くの女性が社会のアンペイドワークを献身的に担う中で、奴隷解放や社会福祉などの問題を訴えていました。
活動が政治に与えた圧力は大きく、社会正義や平和への貢献は大きいものがありました。
ハウ氏の提唱した「平和のための母の日」は全国に普及はしませんでしたが、そういう流れもあったればこそ、アンナが母の生き様を記念した追悼が世の人々から賛同されたのです。
制定当時の母の日の本当の意味と意義
儲け主義と為政者の保身が母の日を変えていく
アンナは、ただ単に育ててくれた母に感謝するだけでなく、すべての母親の社会への貢献を讃え、平和を祈願する日として「母の日」を提唱しました。
しかし、「平和」より「プレゼント」のほうが、消費を煽るには都合が良かったのでしょう。
女性の社会運動によって突き上げられる政治の担い手たち(男性)により、
から
という、一見とても美しい目的にすり替えられていった面もありました。
「母の日」の本当の理念を思い起こそう
アンナはカーネーションの驚きの値段を見た時、
と裁判を決意しました。
敗訴後、どんな想いで晩年を送ったのでしょう。
死ぬ間際、
と短く言い残しています。
現在の日本の母の日商戦も、これでもか!というくらい派手です。
育ててくれた恩に感謝することは大事です。
しかし、プレゼント攻撃により、家族のための献身を優先することを女性に強いる結果になると、母の日の本来の意味には反してしまうかもしれません。
アンナの無念さを思った人は、今一度、女性が社会へ目を向けることや、世の中を良くするための貢献の在り方について考えてみてはどうでしょう。
本当の母の日は、母が受け身になる日じゃありません。
アンナさんが考えている「母の日」と、今の「母の日」の考えが似てるか似てないかってのは人それぞれかな~。
自分の母に感謝するって言うのが、社会貢献の一歩へとつながる事もあるかも。
でも、この「母の日」を花屋業界が利用するってのは・・・
ん~、気持ちはわかるけど、アンナさんの気持ちもちゃんと考えてほしかった~