6月に入ると見ごろを迎える花菖蒲は、日本の伝統的な園芸植物のひとつです。
もとは、
- 日本
- 朝鮮半島
- シベリア東部の地域
に自生していた野生のノハナショウブを戦国時代の頃から日本人が品種改良、育成を進め、江戸時代に飛躍的に栽培種が増えました。
江戸の園芸文化の発展ぶりは、世界の園芸史の中でも特筆される程のものです。
中でも江戸文化を象徴する園芸種、花菖蒲は、日本発の世界に誇るオリジナル園芸植物なのです。
お江戸の紳士は花がお好き
武士の時代に花開く園芸文化
万葉集にも花を詠んだ歌がたくさんあるように、日本人は古代から、花を愛でて生活の中に置いてきました。
平安の頃、貴族や大地主など一部の富裕層は、庭に花や樹木を植えて手入れさせることもありましたが、まだ観賞用の植物を専門に栽培する園芸が、芸道や娯楽として確立するには至っていませんでした。
武士が徐々に権力を持つようになった頃、無骨で野蛮な輩と卑下されてきた侍たちも、己の威厳や力を誇示するための美的センスにこだわるようになります。
戦国の武将たちの間では、
- 装束
- 旗印
- 調度品
などの芸術性を追求する文化が発達します。
千利休が活躍した時代、園芸も、食料を生産する農業としてではなく、庭づくりの一環をも超えた栽培種を探求する芸術文化として、少しずつ成り立っていきます。
徳川三将軍の花好きが、江戸を園芸都市に
- 家康
- 家忠
- 家光
と江戸幕府最初の三代将軍は、みな無類の花好きでした。
大名や旗本の江戸屋敷でも、将軍に習って庭に植える花にはこだわるようになり、全国から珍しい花が集められ、独自の品種改良に励む園芸家も増えていきました。
花菖蒲についても、記録を見ていくと、戦国のころの栽培種はごく素朴なものだけでしたが、江戸前期から中期に、徐々に着実に品種を増やしていきました。
18世紀が終わるころまでには、色のバリエーションはほぼ出そろい、形も大きさも基本の部分はかなり確立されました。
堀切菖蒲園の成り立ち
堀切村のお百姓 伊左衛門
19世紀初頭、園芸農家の小高伊左衛門は、当時花菖蒲の園芸家として有名な旗本、万年録三郎と松平定朝から、当時逸品として知られた品種を譲り受け繁殖させました。
二代目の伊左衛門も花菖蒲に魅入られ、全国各地から異なる品種を集めては繁殖・改良を進めていきました。
天保年間(1830~1844年)には、200種を超える花菖蒲が咲き乱れる大きな花菖蒲園となり、江戸の人々から愛される名所となっていました。
江戸の旗本 万年録三郎
伊左衛門に多くの優れた種を譲り渡し、花菖蒲園の隆盛に多大な貢献をしてくれた万年録三郎は、本所に住んでいた旗本で、花菖蒲の新作を作出しては売りだしていた育種家でした。
下記の松平菖翁ほど有名ではありませんが、この人も秀品と言われる品種をたくさん作った人です。
菖翁[しょうおう] 松平左金吾定朝
江戸時代後期、二千石の旗本松平左金吾定朝は、その父の代から園芸好きで、特に花菖蒲にこだわり、60年以上にわたって花菖蒲の品種改良を続け、麻布の2400坪の邸宅の中で数々の逸品を作り上げました。
定朝の生み出した品種は、それまでの花菖蒲の花形を飛躍的に発達させ、牡丹咲きの種まで作出しました。
彼の作る花菖蒲は、形が多彩なだけではなく、品格のある芸術品でした。
江戸花菖蒲の発達に最も大きな影響を与えた彼は、人々から
菖翁
と呼ばれました。
彼の死後、作出した花菖蒲のすべてが伊左衛門に売り渡され、堀切の花菖蒲園の隆盛に貢献しました。
今に伝わる江戸花菖蒲
江戸近郊にはその後も多くの花菖蒲園が生れ、江戸花菖蒲は浮世絵の美人画の背景を飾る定番の花となり、江戸の園芸文化の象徴となりました。
ですが近代以降、開発が進む中次々と閉園され、堀切の花菖蒲園も縮小して現在の堀切菖蒲園部分だけかろうじで残っています。
堀切で発展した江戸花菖蒲は、その後肥後や伊勢地方にも持ち込まれ育成されますが、こちらは鉢植えで楽しむ品種として発達しました。
広大な花菖蒲園で花を楽しむという形態は、江戸の人々が作り出した江戸独特の文化なのです。
現在地方の花菖蒲園では、江戸花菖蒲と肥後系、伊勢系も一緒に植え込まれています。
ですが堀切菖蒲園では、
今でも、江戸時時代独特の文化を見ることが出来るって良えなぁ~
今後も大切に守っていきたいね!