今年も
「母の日」
がやってきます。
花屋の店先のみならず、
- デパート
- コンビニ
- 駅の売店
にさえ、カーネーション関連商品が溢れています。
お侍の時代は、花をプレゼントする習慣も母親が家の中で主役になることも無かったのに、よくこんな習慣が広まったものです。
そもそも何でカーネーションなのでしょうか?
アメリカ由来の母の日とカーネーション
5月の第二日曜を母の日と定め、カーネーションがそのシンボルとなったのは、20世紀初頭にアメリカで始まった習慣です。
日本にもキリスト教関係者伝いにすぐに伝わり、1914年アメリカで公式に祝日に制定されると、翌年には日本の教会でも行事がもたれました。
アンナ・ジャービスの母の追悼式がきっかけ
1907年5月、アメリカのアンナ・ジャービスという女性が、亡き母の人生を記念する追悼会を教会で行いました。
母の好きだった白いカーネーションを祭壇に飾ったことが母の日の起源とされています。
彼女のお母さんは、南北戦争時代にウエストバージニア州で母親たちを先導し、中立な立場で戦争に傷ついた人を助け、平和のための社会活動を行った人でした。
北軍なのに奴隷制度が残っていたウエストバージニア州は、人道主義と奴隷制の狭間で最も揺らいだ地域でもあります。
その中で南北間の憎しみを克服させる活動を展開した女性たちの勇気と功績は、どれだけ素晴らしいものだったか想像に難くありません。
聖母マリアの涙から生まれた花
カーネーションは地中海地方原産で、古代ギリシャでは既に栽培されていました。
キリスト教では、イエスの貼り付けを見て聖母マリアが流した涙の後に咲いた花と伝えられ、母性愛の象徴となっています。
アンナのお母さんは、戦争で傷つく子供たちを無くすために活動する母親を表わす花として、白いカーネーションをことさら愛したのかもしれません。
日本のカーネーションには父がいる
江戸時代すでにカーネーションは日本に伝わっていた
実は徳川家光の時代に、オランダから日本にカーネーションが持ち込まれていました。
当時はオランダ語に近い「アンジャ」または「アンジャベル」と呼ばれています。
その後寛文年間にも再伝来し「あんしやべる」と紹介された記録があります。
が、江戸時代にはまだ栽培法などは伝わっておらず、日本に根付くことはありませんでした。
母の日伝来とほぼ同時に始まった日本での栽培
本格的栽培に最初に取り組んだのは、明治の末期、土倉龍治郎という実業家でした。
1910年、龍治郎はアメリカ帰りの別の実業家がカーネーションの品種を複数持ち帰ったのを機に、近代的な栽培技術を構築しようと試み、新しい品種を生み出します。
以後日本でのカーネーション栽培が定着し、龍治郎はカーネーションの父と称されるようになります。
近代化と世界大戦の時代に根付いていく母の日
デモクラシーの時代に受け入れられていった習慣
時は大正、日本の近代史の中で、最も社会がグローバル意識に溢れ、西欧文化が一気に庶民のレベルまで広まった時代です。
西洋の花カーネーションは、栽培が進むにつれ人々の間に浸透していきました。
欧米では、何かの式典の際に胸に花を飾る習慣があり、母の日のカーネーションも初めは参列する人たちが胸に飾るものでした。
紅白のカーネーションを胸に飾る習慣が、母の日の伝来と共に日本に伝わります。
男尊女卑の日本で、母親をことさら讃える文化が抵抗なく受け入れられていったのは、カーネーションの物珍しさのせいもあったかもしれません。
平塚らいてうが
と女性解放運動を先駆けた時代、母の功績を評価し感謝することを呼びかける母の日は、肯定的に受け入れられていきました。
対米大戦後も生き残った母の日
やがて、日本のナショナリズムが高まっていく時代が来ます。
1931年から戦後まで、日本の母の日は一時期皇后の誕生日である3月6日に移行させられます。
太平洋戦争開幕後、アメリカ文化の多くが否定されたりもしましたが、母の日の習慣は野球などと共に禁止されることなく、人々の支持を得て生き残っていきました。
戦後、再びアメリカに習って5月に母の日が戻ると、経済復興と共に急激に商業化が進みます。
それはアメリカでも同じで、商戦の宣伝にのり、カーネーションは子が胸に飾るのではなく、束にして母に贈るものになり、現在に至っています。
ということで、冒頭の疑問に戻ると、カーネーションを贈る習慣を決めたのは、実は
「花屋さん」
だった!わけですね。
いずれにせよ、母の日とカーネーションは日本の近代史のひとつの象徴といえそうです。
あなたはお母さんに何を贈りますか?
母の日は、花屋さんの策略でカーネーションを贈る習慣がついたんやね。
でも、何が大事かっていったらやっぱり、オカンへの感謝の気持ちやで!