七夕と言って連想するのは
- おりひめ・ひこぼし伝説
- 笹飾りとお願い事の短冊
- 大きなくす玉
吹流しがたくさん吊り下げられる
などでしょうか。
他に七夕の定番て何かあるのかと思って調べてみたら、そうめんを食べる習慣があることと、七夕の花は朝顔だということがわかりました。
七夕はどんな風に日本に伝わったのか?
もともとは中国の星の伝説
いつからかは定かではありませんが、夏の夜空に天の川をまたいで輝く二つの星を見て、逢いたくても逢えない悲しい夫婦の物語が作られました。
天帝の娘織女(おりひめ)
と
牛飼いの男牽牛(ひこぼし)
は、元来腕のいい働き者でしたが、夫婦になるとイチャつきすぎて仕事をほったらかしたため、天帝の怒りを買って川の東西に引き離され、ちゃんと働くかわりに
一年に一度だけ逢瀬が許されるようになった
というのが最初の伝説です。
社会の創設期に中国文明の影響を受けた地域・・・
- 台湾
- 韓国
- 日本
- ベトナム
に、同じ伝説が伝わっていますが、2人が引き離されるまでのストーリーは、中国国内でも他国でも、地域により複数違うバージョンが生れています。
各地で独自の風習に発展
七夕伝説の伝わった国や地域では、元々の風習にその地域の慣わしが合体したり、解釈のポイントが異なったりして、それぞれ異なる祭の形が発展しました。
笹飾りやお願い事は、伝説由来の行事から変化した日本独自の風習です。そうめんと朝顔も中国に由来があるようですが、日本の習慣です。
いわれを見ると、実は七夕伝説とは関係があるような、ないような、便乗しちゃったみたいな話が出てきました。
同じ日、同じ名前にちなんでくっついた風習
そうめんの前身は7月7日に食べた祟り除けの餅
古代中国で、王の子が死んだ祟りで熱病が流行り、王子の誕生日だった7月7日に、その子の好きだった
索餅(さくべい)
というお菓子(ツイストドーナツみたいなもの)を作って供えた所、流行が収まった、という故事があります。
以後祟り除けとして索餅を供える例年の習慣になりました。
現在の中国ではその習慣はあまり見られず、日本に伝わった時も、七夕の習慣として伝わったのか、同日の別の習慣として伝わったのかは不明です。
が、平安時代の七夕祭では索餅を食べる習慣がありました。
やがて索餅が素麺に変化したと言われます。
とはいえ、そうめんが習慣化したのは七夕祭が庶民に普及した江戸時代以降であり、実はその間の変化の過程はよくわかっていません。
今もそうめんの習慣を続けている地域では、病を防ぐという縁起担ぎになっています。
名前が牽牛花なので、七夕の花になった朝顔
朝顔も奈良時代に中国から伝わった外来植物です。
中国では種を
牽牛子(けんごし)
と呼び、薬にしていました。
高価な薬なため、贈られた人は牛を引いてお礼に伺ったと言われることからその名が付いています。
花は「牽牛花」と呼ばれました。
日本では朝顔の和名で後に園芸植物として広まります。
江戸時代、中国名「牽牛花」は
を表わすから、と、開いた花を朝顔姫と呼び、無事花開けばそれは逢瀬が無事叶ったしるしで縁起がいいとされました。
東京入谷の鬼子母神の朝顔市が、毎年七夕に合わせて開催されるのは、七夕に咲く朝顔が特別に縁起物だからです。
はっきりした由来はいまひとつ不明瞭
「そうめん」も「朝顔」も、七夕伝説と全然関係ないところからきているようです。
ですが、そうめんには、織姫の折る機織り機にかける糸に似ているから、という一説もあります。
朝顔についても、南宋時代の詩人が
夜明けに開き、日の出と共に色あせていく朝顔の花は、一瞬の出会いのあと、離れ離れになってしまう牽牛と織女の運命のようだ
という内容を歌った詩が残っているそうです。
もしかしたら、どちらも一概に関係なかったわけではない、のかもしれません。
中国も韓国もベトナムも、同じ七夕伝説を持ちながら、日本とはまた違う七夕祭をしています。
東アジアでは、戦後アメリカから入ってくる風習(母の日など)は、あっと言う間に本国の流行がコピーされることが多いようです。
それに比べ、長い時間をかけて中国から伝わったものは、どこも自国の文化と上手に融合させ、まるまるコピーはしないという所が面白いですね。
現在の情勢・・・
どの国もアメリカの顔色を気にしつつ、隣国同士は相互にライバル視している状況に、なんとなく通じている気がするのは考えすぎでしょうか。
七夕にそうめんと朝顔って、初めて聞いたなぁ~
なんか夏っぽくてええやん!