5月5日は
こどもの日
です。
これは戦後制定されたものですが、もともと端午の節句として、男の子の成長を祝い将来の立身出世を願う行事の日であったため、選ばれました。
柏餅やちまきを食べたり、鯉のぼりを飾ったりする端午の節句の風習が、そのまま引き継がれ、今は男女の別なく子どものいる家庭で行われているようです。
端午の節句のいわれは古く、もともとは中国の三国志の時代の厄除けの宮中行事でした。
日本に伝わり、時代と共に変化して、やがて男の子のお祭りとして定着しました。
定番とされているいろいろな風習は、そのいろいろな時代の過程で生まれたものです。
中国の習慣がそのまま伝わり、今も残るちまきと菖蒲
ちまきは偉い人を慕う追悼から始まった習慣
中国での端午の節句の発祥には、いくつかの元があります。
異なる理由で始まった行事が、みな5月5日に行われたので、それらが合体して風習の形ができあがっていきました。
最も古い慣わしは
ちまき
紀元前300年頃、楚の国にいた屈原(くつげん)という政治家が、陰謀によって失脚し、国を追われて入水自殺を図ります。
屈原を慕っていた国民は、遺体が魚に食べられないようにちまきを川に投げ入れたとされています。
その後屈原の命日5月5日に、追悼と国の安泰祈願のためにちまきを川に投げる行事が始まりました。
屈原を慕った世代が無くなった後も、この日にちまきを作って食べる風習は端午の節句の中に引き継がれたのです。
菖蒲とヨモギで邪気を祓う
節句とは、奇数月に邪気を祓う行事をする風習のことでした。
5月は初めは最初の午の日に行っていましたが、午は中国でも五と同じ発音で読まれ、同じ奇数が重なることは運気を高める行事をするにはいい日とされたため、だんだん5月5日に固定されていきました。
旬の植物は生命力が強く邪気を祓うとされ、5月の節句にはヨモギや菖蒲の葉が厄除けに使われるようになりました。
屋根をふいたり軒に飾ったりお湯やお酒に浮かべたりしました。
日本独自の節句となって生まれた風習
菖蒲が「尚武」祈願に結びつき、武者人形飾りが始まる
日本では奈良時代に節句の習慣が中国から伝わります。
端午の節句は、初めは菖蒲とヨモギで田植えの前の邪気祓いをする行事でした。
武士の時代に入ると、菖蒲が尚武(武をたっとぶの意)や勝負に繋がるということで、武勇を祈る武士のお祭りに変化します。
初めは鎧や兜に菖蒲の葉をあしらって奥座敷に飾ってしました。
やがて武家の男の子の成長と立身出世祈願の祭事として定着し、武者人形も飾るようになります。
武家なので、表には、戦の時のような馬印やのぼりも飾りました。
庶民の間に広まったことで生まれた鯉のぼり
江戸時代初期は幕府の行事として武家で行われていた節句でしたが、江戸中期になると庶民の間へもその習慣が広まっていきました。
町人も人形や紙の兜と菖蒲を飾って男の子の成長を祝いました。
のぼり旗などを掲げることは武士に許された特権なので、庶民は代わりに、竹の先に吹流しを作ってあげるようになりました。
これに急流を登る鯉の絵を描いたのが、鯉のぼりの始まりです。
中国の故事で急流を登りきった鯉は竜になると言われており、男の子の出世願いを反映しました。
お家を絶やさないことを祈願する柏餅
ちまきの習慣も伝わっていきましたが、武家の祭事となったことで、家の継承を願うアイテムが追加されます。
それが
柏餅
でした。
柏の木は、新しい葉が出てから古い葉が落ちるので、家の継承が途絶えず続いていく象徴とされたのです。
いわれはいろいろですが、どれも昔の人のいろいろな想いがこもって伝わった風習なんですね。
こどものいる人もいない人も、こどもの日には国の未来を担うこどもたちの無事な成長を祈ってみましょう。
少子化の進む日本、大人がこどものことを考える時間は、もっと増えたほうがいいのかもしれません。
少子化が進むこの日本では、子どもは宝物やから大切にせんとアカンなぁ~