2004年、全国調理食品工業協同組合という所が、6月29日を
つくだ煮の日
と定めました。
以後、全国の佃煮メーカーが協賛して、この日に各地でつくだ煮の日キャンペーンが行われています。
日本人のソウルフードとも言えるつくだ煮、今では全国各地にその地域の産物を使った様々なつくだ煮があり、人々の食卓に上っています。
元々は江戸時代、佃島(つくだじま)の漁師さんたちが保存食、常備食として作っていたものです。
佃島と佃村-つくだ煮の故郷の故郷-
徳川家康が江戸に連れてきた佃村の漁民
戦国時代末期、豊臣秀吉の命で三河ほかの領地を召上げられ、関東に移封されることになった徳川家康が、江戸城へ移る時、大阪の佃村(現在の西淀川区佃)から名主の森孫右衛門を筆頭とする腕の立つ漁師30人ほどを呼び寄せました。
徳川家の御魚役(海産物調達と流通の責任職)として武家屋敷に奉公した彼らは、やがて家康が江戸に幕府を開きます。
すると、急激に人口が増えていく江戸の民の胃袋を支えるため、関西の優れた漁業技術を伝えながら、江戸前漁の発展をけん引する漁師となっていきます。
佃島の漁師の心の拠り所「住吉神社」の記念日
江戸の開発が進み、家光が将軍となる頃、佃村の漁師たちには、漁業に便利な生活の場として鉄砲洲の東の干潟約180㎡がまるまる与えられました。
喜んだ彼らは力を合わせて築島を作り、1645年佃村漁民の島
佃島
が完成します。
島内には郷里の神様を分祀して
住吉神社
を造りました。
この神社の創建が1646年6月29日であったため、この日がつくだ煮の日に選ばれました。
つくだ煮は佃村の民が昔から、売り物にならない雑魚などを醤油で煮て、シケが続く時のための保存食としていた郷土食であり、住吉神社はそんな彼らが故郷を思って団結する魂の拠り所であり、シンボルなのです。
つくだ煮の美味しさはご飯が主食の日本人のツボ
佃島の漁師は昔から伝承してきた生活の知恵である雑魚の醤油炊きを造り続けました。
雑魚だけでなく江戸前の新鮮な白魚やハゼ、小海老や貝類など、何でも醤油で煮込むようになります。
保存が効き、日が経つと味が染みて美味しくなる醤油煮は、地方からくる大名たちの江戸屋敷の食膳でも人気を博しました。
そして佃島名物つくだ煮を自分の領土へ土産に持って帰るようになります。
つくだ煮は全国各地に伝わり、それぞれの地でも人気となります。
やがて各地で土地の産品を煮込んだ独自のつくだ煮が生れていきました。
佃村の漁師と徳川家康の絆の物語
それは本能寺の変から始まった
天下の台所、大阪の漁師が最先端の漁の技術を持っていたこともありますが、佃村の人々と徳川家康には、切っても切れない深い縁がありました。
かつて家康が織田軍と共同で武田を討伐した際、戦功の褒美に信長から駿河の国を与えられます。
駿府で信長を接待した家康の心遣いをことのほか喜んだ信長は、返礼として安土城に招き、家康は関西へ外遊旅行をします。
堺で外遊しているまさにその時、京で本能寺の変がおきます。
戦の準備もなく少ない家臣だけの家康は、反信長勢に捕まったらひとたまりもない、という危機的状況にありました。
服部半蔵ら伊賀忍者に助けられながら人里離れた山野を通り岡崎城まで逃げて帰る途中、献身的に助けてくれたのが、佃村の庄屋・森孫右衛門と村民たちだったのです。
山越えの道中に知ったつくだ煮のありがたさ
住吉地区の神崎川を渡る舟に困った家康一行のために、森孫右衛門は漁船と村の大事な保存食の小魚煮を兵糧として渡してくれました。
海沿いや山道を遠回りして逃げる一行にとって、日持ちもよく栄養のある煮物はどれだけ助けになったかわかりません。
以後、孫右衛門と家康の親交は続き、大阪の陣の際は、佃村の漁民に徳川大名屋敷の台所に出入りする特権が与えられ、家康は彼らから大阪方の様子をうかがい知ったとも言われています。
本能寺の変がなかったら、孫右衛門と家康は知りあうことはなく、江戸に佃島も生まれず、つくだ煮が全国各地へ広まる時期ももっと遅かったかもしれないわけです。
もしかしたら、佃煮誕生の一番の貢献者は明智光秀、なのかもしれないってことでしょうか!?
歴史の巡りあわせとは不思議なものですね。
つくだ煮の不思議な歴史やなぁ~
イナゴのつくだ煮を食べれるのも明智光秀のおかげなんかな?