昨日は秋分の日でした。
月曜日もお休みを取って、週末から行楽におでかけになった人もいたでしょうか。
日本独特の風習として、秋分の日・春分の日と前後3日をつなげた一週間のことを「彼岸」と呼び、亡くなった先祖を供養する習慣があります。お墓参りに出かけた人もいたかもしれません。
お彼岸の先祖供養のお供え物といえば、「おはぎ」と「ぼたもち」というのが定番です。
いわゆるあんこ餅のご飯団子バージョンの和菓子ですね。
おはぎはいつからあった?
お彼岸の行事食として庶民にも広まったのは江戸時代
という質問の答えをネット検索したり、文献を調べたりすると、
と書かれたものが多くでてきます。
Q&Aサイトに同様の質問が寄せられているログを見ると、やはり
「江戸時代から」
の回答が多く、ベストアンサーに選ばれていたりもします。
小豆も砂糖も昔は貴重品で高価でしたから、下々のものはそんなに頻繁に作ったり食べたりできるものではありませんでした。
町人文化が安定して栄えるようになる江戸時代になって、ようやく庶民の生活の中にも根付いてきた、というのは事実だろうと思われます。
昔話や民話、逸話の中にたくさん出て来るおはぎ
一方、日本各地で語り伝えられる民話や昔話の中に、「おはぎ・ぼたもち」の出て来る話が少なからず見受けられます。
また、故人の逸話として残っている話の中には、鎌倉時代以前から「おはぎ・ぼたもち」が登場するものがいくつかあります。
庶民の行事食として一般化したのは、確かに江戸時代くらいだったのかもしれませんが、「おはぎ・ぼたもち」の呼び名や、ご飯団子のあんこ餅そのものの存在は、それよりもっともっと昔からあったと考えられます。
日本昔話の「半殺しのお話」
全国広い地域に残るおはぎの民話
日本昔話を集めた資料に頻繁に出てくる「おはぎの話」があります。
それは、おはぎ(地域によってはぼたもち)の呼び名が「半殺し」であったことから起きる、勘違いの笑い話です。
今でも徳島県や群馬県の一部地域では、おはぎのことを「半殺し」「半殺し餅」と呼んで、郷土の和菓子として売っています。
「半殺しの昔話」が伝わっている地方は、他にもいくつかあるので、米や小豆を作って食べる耕作文化が一般化した中世初期には、すでにその餅菓子と半殺しの名称は、日本に広く普及していたとも思われます。
半殺しと本殺しと手打ちのお話
おはぎは、前述の通り
“ご飯団子のあんこ餅”
です。
もち米とうるち米を蒸して、潰しながら丸めたものに、あんこをまぶしつけて作ります。蒸したもち米をなめらかなお餅になるまでつかないで、ごはんのツブツブが残るくらいに潰した段階で丸めてしまうため、「半殺し」と呼ばれたそうです。
それに対して、つきあげた「餅」で作る、今で言う“あんころ餅”のことを
「本殺し」
と言いました。
半殺しの昔話は、地域により細部はいろいろ異なりますが、大筋は共通しています。
遠くからきた客人をもてなすために、家人(話によっては宿屋)が
と相談しているのを、当の客人が盗み聞きしてしまい、自分が半殺しの目にあわされるのではないかと慌てふためくお話になっています。
後に、落語の演目にもなりました。バージョンによっては、
「半殺しにしようか、手打ちにしようか」
というのもあります。
「手打ち」は手打ちそば(またはうどん)のことです。どちらにせよ、言葉だけ見ると、なんとも物騒な話です。
落語の「半殺し」は、恐れをなしたお客が朝までにみんな逃げ出してしまうオチですが、民話の中には、逃げてしまうものも、震えながら朝を迎えると「どうぞ」とおはぎが出て来る話も両方見られます。
いずれにせよ、最後はことばのとんちんかんな通じっぷりに「わっはっはっ・・・」と大笑いする面白おかしい昔話になっています。
そんなネーミングセンスってどうなのよ?って思う人もいるかもしれませんが、昔の日本人(多くは農民)て、ぶっちゃけて飾らない、明るく逞しい人たちだったような気も、なんとなくしてきます。
明日はまさケロンを半殺し!?本殺し!??!おはぎ怖いよ~。