日本で「春告魚」と呼ばれている魚があります。
鰊[ニシン]
です。
しかし、春先の魚屋の店頭を見回しても、初夏の初鰹や秋のさんまほど、「今が旬です!」と目立っているようには感じません。
というより、普段そんなに見かけない魚です。
最近、TVの人気ドラマの中で、戦前ニシン漁で一攫千金して「ニシン御殿」を建てた家族が出て来る話がありました。
かつては北海道では、本当に盛んにニシン漁が行われていました。
漁の作業歌「ソーラン節」は北海道を象徴する民謡です。しかし、昭和30年頃漁獲量が激減し、以後は輸入に大幅に頼るようになりました。
今は貴重な魚なのです。
ニシンてどんな魚
春告魚と呼ばれる理由
回遊魚のニシンは、寒流地帯で暮らす魚です。
春に産卵が近づくと、餌が豊富なちょっと暖かい海に南下して、沿岸の昆布の群生地に産卵します。
昔は、富山沖くらいまでニシンが南下することもありました。
だんだん南下のラインが上がっていきましたが、北海道では明治・大正期に盛んにニシン漁が行われました。
ニシンは雄雌ペアにならず、大量に群れで産卵し、雄は一斉に精子をまき散らします。
この時海水が白濁し、遠目には海が真っ白くなるように写ります。
北海道の人はこの状態を群来る[くきる]と呼んでいました。海が群来るのを見た人々は、北の大地にも春が訪れたことを実感したのです。
本当の旬は秋らしい・・・・
ニシンは身が柔らかく脂のよくのった魚なので、生で塩焼きにしたり、塩と糀で漬けた「切込み」と呼ばれる生珍味にしていただくと、大変まろやかで美味しいです。
しかし、傷みがはやく、一度に1年分収穫できてしまうため、多くは干物やぬか漬けに加工されました。
ニシンの卵巣カズノコもほとんどは塩漬けや味付けカズノコに加工されます。
ニシンは、産地の人に言わせると、生から調理するほうが食感も柔らかくて美味しいそうです。
が、生保存期間が短いので、食べられるのは収穫期直後だけです。
そのため、ニシンの旬は春だと思っている人が大半です。
が、これはあくまでも商品が出回る時季です。
寒く冷たい真冬の寒流の中で冬を越し、春先に産卵のために沿岸まで戻ってくるために、秋は目いっぱい餌を食べ、脂肪を蓄えて冬に備えています。なので、ニシンの身を食べるのではあれば、実は秋こそ一番脂がのって美味しい旬なのです。
身欠きニシン
日持ちよく、運びやすい保存食にするなら、日干しにするのが一番手っ取り早い加工法でした。
脂肪分が多いので、内部までゆっくり乾燥させないと腐りやすくなるため、三枚におろしてから乾燥させます。
この干物は「身欠きニシン」と呼ばれています。
食べる時は、米のとぎ汁に一晩漬けて戻してから、煮物や甘露煮にします。
戻すと節ごとに身が取れやすくなるので、身が欠けやすい=身欠きニシンと呼ばれるようになったそうです。
ニシンは、身とカズノコ以外の部分も捨てられずに加工されました。
内臓や頭や尻尾は有機肥料になりました。
この肥料は「ニシン粕」と呼ばれ、近代まで、本州との取引は、「身」よりも「カス」がメイン商品でした。
ニシン粕は、関西にも普及していました。カスのついでに身欠きニシンも持っていかれました。
京都では、ついでに売られていたこの「身」の使い道を考えた末、甘露煮をかけそばにのせた「ニシンそば」が発案されました。
それが評判を呼び、やがて全国に知られるところとなっていき、身欠きニシンの販路も広がっていったのです。
ぬかニシン
身欠きニシンと並び多くつくられるニシンの保存食が糠[ぬか]漬けの「ぬかニシン」でした。
食べる時はぬかをよく洗い落として焼きます。ぬかの香りが香ばしく、ニシンの程よい苦味がまろやかになって旨味が引き立つ焼き魚になります。
こちらはまだ本州ではポピュラーではありませんね。
ニシンにはアニサキスという寄生虫がいることが多いので、生で食べることはあまり勧められません。
前述の「切り込み」も、玄人が衛生管理をちゃんとした中で作っています。
それでも、どうしても生の食感で食べてみたい人は、このぬかニシンを塩抜きしてからマリネにしてみると、それっぽくなります。
カズノコ
ニシンの子なのに、どうして「ニシンコ」じゃないのでしょう?
中世まで、ニシンは「かどいわし」と呼ばれていました。北海道ではアイヌの人たちが昔から食べていましたが、蝦夷の言葉でニシンは「カド」と言ったのです。
ニシンといわしは見た目がとてもよく似た魚なので、「かどいわし」になったのでしょう。
カドの子どもだから「カドノコ」なんですが、東北地方を経て伝わってくる時「カズノコ」に変化していったのは、なんとなくわかる気がします。
日本のにしん漁は廃れてしまったのか?
昭和30年頃を境に、パッタリとニシンがこなくなる
江戸時代は北海道ではまだお米の収穫がそれほどありませんでした。
松前藩が治めていた時は、家来への俸禄(給料)はお米で支払う代わりに、ニシン漁の漁業権を与えていました。
認可制なので、漁獲量はある程度に抑えられていました。
明治になると、規制がなくなり、商人が漁師を雇って漁業経営を行う網元漁が盛んに行われるようになります。
定置網など使った効率的な漁も発達し、ピーク時は毎年70~90万トンも水揚げされました。
北海道には漁と加工の拠点にした番屋型の網元の屋敷がたくさん建ち並びました。これが「ニシン御殿」です。
北海道はニシン漁で得た資金力を元に急速に開拓が進み、発展しました。
が、多くの森林を伐採したため、環境破壊も進みました。
無制限な乱獲は個体数を激減させ、川の上流の環境変化が、磯の昆布の発育にも影響を与えました。
それが原因の全てかどうかまだはっきり解明されていませんが、明治30年をピークにニシンの漁獲量は減少していきました。
そして昭和30年頃を最後に、海が群来ることがなくなってしまったのです。
漁協や北海道庁の取り組みで資源回復が少しずつ進む昨今
一時は日本のニシン漁はもう滅んでしまったと思われました。
が、漁業関係者や自治体は、諦めず、環境破壊の改善や、稚魚の放流など資源の保存回復のための取り組みを熱心に行いました。
努力が実り、1990年代の終頃から、また再びニシンがくるようになりました。
かつてに比べれば、まだまだわずかな漁獲量ですが、現在も北海道沖でのニシン漁は、なんとか継続しています。
ニシン漁の町だった北海道の日本海沿いの町では、輸入ニシンを使ったカズノコやニシンの加工品を今も地場産業としてずっと続けています。
日本産のニシンやカズノコは、今では非常に貴重な高級品ですが、日本のニシン漁は、資源回復を目指してまだまだ頑張っています。
とはいえ、環境や資源の保善は進んできたものの、一方で、昨今の地球温暖化の影響で海水温が上がっています。
なかなか思うようにはニシンが戻ってきません。
もうしばらく、地道に努力を続けながら見守る時期なのかもしれません。
今も、ソーラン節の歌詞のように、「ニシン来たか?」と沖のかもめに聞きたくなる思いの人たちはたくさんいるでしょう。
国産のカズノコが庶民の手に届くものになる日は、果たしてくるのでしょうか。
ニシンコといえば、サザエを小型にした様な巻貝のことをそう呼んでるところがあるみたいだね~。
ニシンの子はカズノコ!