5月5日はゴールデンウィークの後半の連休を作る大事な祝日です。
自由に長期の有給休暇を取ることが難しい日本では、気兼ねなく仕事を連休できる貴重な期間ですね。
そんな「連休の一日」としての認識しかない人も多いと思いますが、実は「こどもの日」は、日本ではずっと昔から大事にされてきた年中行事の日です。
しかし、その年中行事の中味は、時代によって様々に移り変わってきました。
端午の節句って何だ?
もともとは中国から伝わった邪気祓い行事
古代中国では、3月3日、5月5日、7月7日など奇数が重なる日に、季節の旬の植物の生命力にあやかって邪気を祓う行事を行う習慣がありました。
この行事のことを「節」または「節句」と言います。
もともと5月は雨季を迎えて病気や災害が起きやすくなる月であるため「物忌み月」とされ、最初の午の日に薬草(ヨモギ)を飲んだり菖蒲の葉で邪気を祓っていました。
このふたつがくっついて、午の日ではなく毎年5月5日に邪気祓い行事が行われるようになります。
端午は「最初の午の日」を意味し、名前だけ「端午の節句」として残りました。
日本では田植えのための神聖な儀式の頃
一方、日本では5月は田植えの季節です。
古代、田植えは神聖な行事とされており、早乙女(若い処女)が行うことになっていました。
奈良時代に節句の習慣が中国から伝わると、早乙女の清めの行事と結びつき、田植えの前に若い女性が菖蒲やヨモギで屋根を葺いた小屋にこもって穢れを祓うようになりました。
日本の端午の節句の始まりは、女性が主役の祭事だったのです。
武家の登場が世の中のしきたりも変えていく
武士の時代に入ると、葉の形が剣に似ている「菖蒲」は、「尚武(武をたっとぶの意)」や「勝負」にも通じると、武勇を象徴する縁起物となります。
邪気祓い行事であった端午の節句は、兜に菖蒲の葉を飾ったり流鏑馬を行う武士の祭に変わっていきました。
主役も男の子になっていきます。
同じ頃、紙の人形を川に流して厄払い(流しびな)をしていた3月3日の上巳の節句が、武家の中で、女の子の厄を肩代わりしてくれる人形を部屋に飾る行事に変わっていきました。
人形は女の子の遊びに使われるものなので、女性主体色が強まったようです。
江戸時代に節句行事が確立する
江戸時代に入り、日本独自の暦が整えられるのに合わせ、中国から伝わった年間行事の位置づけも整理されていきます。
幕府は年間5回の節句を幕府の公式行事として定めます。
当時は吉兆に関わる祭事などは政治の重要な職務でした。
これ以降、上巳の節句は女の子の成長と結婚・出産を願うお祝い「桃の節句」、端午の節句は男の子の成長と立身出世を願うお祝い「菖蒲の節句」として武家の中で定着することになりました。
江戸中期以降、それが庶民の間の年中行事にまで広まっていきます。
菖蒲の節句がこどもの日になったわけ
戦後の祝日法の制定に伴い生まれた「こどもの日」
近代に入り、国際社会では人権に関する考え方が飛躍的に発展し、20世紀になると子どもの権利を守り、福祉を増進させる目的で「子どもの日」を定める国が次々でてきました。
第二次大戦後、日本でも新しく「国民の祝日に関する法律」ができる際に、「こどもの日」を制定することになりました。
女の子、男の子の成長を願う二つの節句のほか、いくつか候補日があがりましたが、検討の結果5月5日に決まりました。
3月3日にしないほうがいい理由をあげる人が多く、逆に5月5日を希望する請願が多く出されたという経過があったそうです。
新しい憲法は男女平等となりましたが、まだまだ人々の意識は「女が物事を代表する」ことに抵抗がある時代だったようです。
こどもの日の主役はこどもと母親
祝日法の定めでは、こどもの日とは
日になっています。
5月だから無理やり母の日と被せたわけではなく、やはり制定当時は「子育てといえば母の役割」という価値観があったものと思われます。
父には感謝しなくていいのか?
という突っ込みが70年近くほとんどされていないのを見ると、良い悪いは置いておいて、やはり日本は
という価値観を尊び、男女それぞれの「らしさ」を大事にする文化の国であることが感じられます。
こどもの日の変遷を見ていくと、日本という社会が、男の子女の子にどんな生き方や社会での役割を望んでいるのかを表す日、になってきたことがわかります。
国連の定める国際デー「世界こどもの日」は、こどもを主体として権利の保護や福祉を社会に訴えることが主旨なんですが、そこら辺も、実に日本らしいのかもしれませんね。
5月5日は「こどもの日」。子どもたちみんな未来に向かってGO!GO!